児玉三九郎氏の旧姓は田中である。三九郎氏は背が高く、体格の良い人であった。軍隊生活を経験された為かとても厳しく、孫にあたるA氏はよく怒られていた。
三九郎氏は好きなお酒を飲むと日露戦争の話をよくされていた。
三九郎氏は日露戦争に出兵されていた。日露戦争では、三九郎氏を含む岐阜県周辺の人は鎮守府である舞鶴の軍港へ行った。
三九郎氏はその後、横須賀へ行き海軍機関学校を卒業してから一等機関兵として戦艦「三笠」に乗船した。証状には「24歳」、「機関工」であったと記されている。おそらく三九郎氏は次男であったため、自ら機関兵を志願されたのではないかと思う。
三笠艦乗船者名簿があり、中佐であった秋山真之氏などの名前が並んでいる。養老町の近辺では垂井町、安八郡などからも乗艦しており、総員901名いた。名簿には田中三九郎と記載されており、結婚する前であった。
西濃近辺の「三笠」の乗船名簿によると、養老町からは田中三久郎氏お一人が乗船された。
日露戦争では旅順を根拠地として軍港を支配していたロシア帝国海軍旅順艦隊を海上封鎖するため旅順港閉塞作戦が3次にわたって行われた。三九郎氏は第一回閉塞隊として出兵した。作戦は結果として失敗に終わったが、三九郎氏が決死の覚悟で隊を率先し、日本帝国軍人の義烈を示したこと、敵の防御・攻撃力を計測したことで第二回の作戦の手がかりを作ったことに対して感謝状を送られている。また、後に金鵄勲章(きんしくんしょう)を授章されている。当時はロシアが強く、日本が勝てる見込みはなかったが勝利した。
日露戦争終戦後、三九郎氏は大阪商船へ入社され明治41年まで勤められた。その後は、大日本水産へ転職された。
養老駅前の在所から明治41年(1908年)に石畑の児玉家に養子縁組され、翌年にご結婚された。
大正はじめ頃に養老へ戻り農業に従事された。
昭和21年(1946)に三九郎氏は69歳で亡くなっている。墓は石畑の墓地にある。

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表示位置は養老の忠魂碑を示している。