昭和20年代に、戦争中の鉄の供出で、押越の西福寺の鐘を持って行かれて、非常に悲しい思いをした記憶がある。鐘も半鐘も、二つとも持って行かれてしまった。子供にも分かるほど、鉄の供出は村にとっては大きな出来事であったのだろうと思う。
学校から旗を立てて、高田の駅まで兵隊送りに行った。しょっちゅう行っていた記憶がある。村の人も送りに行くのでかなりの行列ができていた。A氏は兵隊送りの帰りに日の丸の旗を持ってお父様と写真を撮った記憶がある。
英霊迎えもあり、戦死した人を高田の駅まで迎えに行った。そのようなことばかりして、勉強はしていなかった。
学校に兵隊さんが常駐していた。A氏が4年生の時、軍国調の先生がいて、クラスを幹部班、航空班、歩兵班などに班分けしてグループ授業をした。幹部班は、他の子供たちから贔屓班と呼ばれていた。先生が贔屓する子が班に入っていたからである。主にお大尽の家の子が幹部班に入っていた。お大尽の家の子は頭が良かった。

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現在の西福寺の鐘は昭和22年12月に鋳造されたもので、滋賀県長浜市の西川徳左エ門の作である。表示位置は西福寺を示している。