A氏が子供の頃の昭和20年代から30年代は、竹細工の竹トンボも、竹を火で炙って自分で作った。小さい子は、一本足の竹トンボを作った。一本足の竹トンボは、足と羽根がくっついているもので、足がついたまま飛ばした。上級生になると羽と足を分けて作って、羽だけ飛ばした。他に、やっこ凧、せみ凧も自分で作って田んぼで上げて遊んだ。
竹トンボ以外の竹細工では、籠を編んで遊んだり、スキーを作って滑った。
男子と女子では、遊びが違ったので、あまり女の子と遊んだ覚えはない。あの頃の男子は、今のように危険予知訓練を行う必要がない程、遊びの中から自然にいろいろなことを学んでいった。
押越の八幡神社の周りを、木から木へ伝って一周したこともある。どの枝が自分の体重に耐えるかが分かっていた。たまに途中で落ちることもあったが、大きな怪我をすることはなかった。ご神木も登った。大人から怒られたことはなかったし、子どもが落ちて大怪我をした話も聞いたことがない。
昔は田んぼの中の草が生えている所に肥溜があり、はまることがあった。
釘さしという遊びをする時は二寸釘を使った。地面に書いた線に従って釘をさしていく遊びである。釘さしはお金がなくても遊べるので、よく遊んだ。2人以上なら何人でも遊べた。遊ぶ場所は、柔らかい地面では線が書けないので、線がきれいに書ける庭先だった。昔は、普段は庭先で畑を作り、秋になると干し籾をするために平らにならしていた。
コマ遊びもした。当時は、朝鮮ゴマが流行していた。他には、どんがねゴマ(胴金ゴマか)や鉄ゴマもあった。小さい子はやかんの蓋で回す練習をした。朝遊んでいたので、あまり夢中になると学校に遅刻してしまうこともあった。コマは、高田のなべ又商店で買った。また、丸物(まるぶつ、大垣市)の北側にカンコウバ(漢字不明、大垣市郭町)という大きいおもちゃ屋があり、そこに行けば大体のものはあった。西福寺の板張りの所でコマ遊びをすると、お御堂が痛むと怒られた。また、寺は縁の下が広いので、かくれんぼをして遊んだ。
将棋もよくやっていた。最初は、まわり将棋、山崩し、はさみ将棋をして将棋の駒に親しんだ。まわり将棋をしていると駒の格が分かるようになる。そのような所から自然と将棋に馴染んでいった。小学校の時、将棋が強い子が学校に7、8人いた。押越の子は将棋が強かった。
押越の子が将棋が強かったのは、押越連中どうしで将棋をして切磋琢磨していたからではないだろうか。また、他の地域よりも将棋が流行っていたのかもしれない。学校の宿題を忘れるほど将棋をして、学校で立たされたこともあった。将棋ばかりしていたのではなく、外で遊び疲れると縁側で将棋をし、あきるとまた違う遊びをしていた。二人しかいない時はひたすら将棋をすることもあった。宿題を一緒にやろうかと家に寄って行って、結局将棋をやっただけで終わることもあった。
大人は将棋をあまりせず、囲碁をしていた。A氏はお父様に囲碁を教えて貰い、家に立派な碁盤もあった。
虫取りをする時は、今のような虫取りの道具がなかったので、竹で作った輪に粘るクモの巣をくっ付けて、蝉を捕った。
お宮さんの地面にある小さい穴を掘りだして、蝉の幼虫を掘りだし、家に持って帰って孵化させた。蝉の穴もつまようじで開けたような小さな穴だが、土の出方が違うので見れば中にいる虫の種類が分かった。蟻の穴は土が穴の周囲に盛り上がり、蝉は周囲がきれいになっていたのですぐに分かる。八幡神社(押越)に行くと、このような穴がいっぱい開いていた。
カブトムシも捕ったが、カブトムシはめったにおらず、珍しかった。
たんぽぽちぎりという遊びがあった。逆さに持って、タンポポの頭の切り合いをする遊びで、先に切られた方が負けである。塩で揉んで柔らかくしておくと、強くなるなど、人それぞれの秘伝があり、家でこっそり強くした。中には針金を入れてインチキする子もいた。素のままだと簡単に負けてしまうので、どうすればちぎられないか工夫した。黄色いタンポポより白いタンポポの方が強く、口が白くなっているものが強かったので、強いタンポポを探して歩いた。

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釘さしは、二人以上、何人でも遊べる。順番に地面にささるように釘を投げていき、自分の釘がささった場所から次にささった場所へと軌跡が分かるよう線を引く。自分の釘が他の誰かの釘の軌跡によって出られなくなったら負け、地面に釘がささらず倒れても負けである。なお、誰かの軌跡を横切ることはできない。表示位置は高田のなべ又商店を示している。