A氏は、6か月の少年兵教育の後、豊橋(愛知県)にあった予備士官学校で、見習士官幹部候補生の教育を受けた。この時は、甲種幹部候補生(将校)と乙種幹部候補生(下士官)に分けて教育されていた。生涯で一番勉強した時期である。月の光で法典を読んで、戦闘の仕方が書かれた歩兵総典、射撃のための射幣教範、戦陣訓等何冊か暗記した。また、大台砲、連隊砲、速射砲をそれぞれ3か月ずつ勉強した。
武器の扱いの他に馬の世話や乗馬も習った。競馬用と違い、足が太い輓馬に大砲を乗せて引っ張った。馬小屋へ行くと、馬の扱い方が書いたものがぶら下がっていた。「オラーオラーと静かに近づけ、それ噛むぞそれ蹴るぞ」と書いてあった。それまで馬は見たことはあっても触ったこともなかったが、自分たちで馬の手入れをしなければならず、蹄に入った泥を綺麗に掃除して、蹄の保護の為に硫酸銅を塗った。牛と違って反芻が出来ないので、疝痛という病気になる馬もいた。小さい時に自転車に乗るのに苦労したが、それ以上に馬に乗るのは難しかった。自転車のハンドルは固定されているが、たずなは動くのでつかまる所がないためである。馬も乗り手が上手いか下手か分かるので、なかなか言うことを聞いてくれなかった。
入隊後、A氏は一等兵、上等兵、少尉を経験した。
訓練では20キロの荷物を持って歩いた。持ち上げるくらいなら出来るが、それを身につけて行軍するとなると大変辛かった。行軍は午前中20km、午後20kmを45分で4km歩いては15分休んだ。
実戦では弾丸や砲弾が飛んできたり、足元で甲弾が破裂したりして本当に怖い思いをした。練習の時は空砲であったが、中身の入った弾の音は腹に響いた。
A氏は、戦闘により鉄砲玉・手榴弾・砲弾の3種類で、3か所負傷した。普通に戦闘に使われる弾はみんな体に受け、軍医も「狙ってもあたりません」と不思議がるほどであった。
兵隊の中には、学歴のある人や会社の社長もいたが、小学校卒業後すぐに軍隊に入った叩き上げの人もいた。
「文句を言うな」「天皇陛下の命により」等と言われると抵抗もできない、理屈の通らない世界であった。無謀な教育だったかもしれないが、そのような軍隊教育であったからこそ、危険な戦場に行くことができたのではないだろうか。
小隊を率いる立場になったA氏は、戦場では最前を行かなければならないこともしばしばあった。そんな中で、死ぬということや、何の為に生まれて来たのかといったことを、よく考えた。
戦時は、常に何にすがって死のうかと考えていた。ただ、あっけなく死ぬことは、とてもできなかった。死に様は、うーんと言ってそのまま死んでいくか、「お母さん」「天皇陛下万歳」「日本帝国万歳」等と言って死んでいくか、何を頼りに死んでいくべきか、本当に考えた。面子があるので、将校が「お母さん」などと言って死ねない。やはり死ぬ時は、「天皇陛下万歳」と言って死のうと覚悟した。
A氏は、終戦間近に中国の武昌(ぶしょう)から、長沙(ちょうさ)、株洲(しゅしゅう)、衡陽(こうよう)、桂林(けいりん)を経て、ミャンマーへ抜ける作戦に駆り出された。
その頃残っていた日本軍で一番優秀な部隊は、満州の関東軍で、他は直前の召集などで集まった、訓練を受けていない部隊ばかりであった。船でどんどん兵を送っても皆やられて、隊の補給が追いつかないということで、A氏が所属していた岐阜歩兵第68連隊も出動することになったものである。
行軍する時は、当てにならない地図を頼りに、隊長は一番先頭で行かなければならない。地図に道が書いてあっても、広い道ではなく、狭い石畳の道であった。当時の中国はそれが国道であった。大きな道は、蒋介石が軍隊を移動させる為に作った軍用道路があったが、蒋介石が引き上げるときに、穴を掘ったり、地雷で爆破するので、改めて道を直さなければ、戦車も通れない状態であった。
現地で行軍していると、相手がバリバリと撃ってきたので、山へかけずり上ったが、すり鉢のような山でなかなか前の人間について行くのは難しかった。とにかく皆走って、少しでも身を隠せる所に逃げた。義勇軍の砲弾がすぐ近くに落ちた時、思わず日の丸を振ると、今度は手榴弾が爆発した。次の瞬間周りを見渡したら、4人しか残っていなかったということもあった。
A氏が経験した一番最後の戦争は、昭和20年(1945)4月~6月の2か月間であった。その時、A氏は24、25歳で、中隊長だった。普通は200人で中隊を編成するが、80人で一個中隊を編成していたので、兵隊が少なくて苦労した。無事帰ってきたのは半分の40人ほどであった。将校は、多くが負傷したり戦死をした。隊員の中には、小学生の子どもがいるような明治生まれの、A氏よりも年上の人もいた。48歳で入隊した一年志願の将校には、女学校に通う娘さんがいた。
A氏の最後の戦争体験は以下のような状況であった。
蒋介石政府が重慶(じゅうけい)に移り、その南東370kmほどの所に蕋江(しこう)飛行場があった。その飛行場に日本の部隊が入ったが、山ばかりの地形で周りから囲まれて、何万人も出るに出られなくなっており、その人々を救出するという任務であった。
そこは日本では考えられないほど平地がなく、微かに盆地のようなものはあったが、ほとんどが山ばかりの場所だった。ここでも山の上から撃たれて苦労した。
A氏が武昌の南方にある洞庭湖(どうていこ)付近にいる時に終戦を迎えた。第一線で陣地構築を終えたところで、伝令がやってきて、軍刀を置いて帰るように言われた。サイパンの戦闘状況や、友軍の風船爆弾がアメリカの西海岸に落ちたことなど、色々情報が入ってきた。
戦争を通じて、A氏は、戦場の第一線に立つ小隊長、中隊長は消耗品であるとつくづく実感し、自分の子どもらには、豆鉄砲で良いと思った。
軍隊では、一つも良いことはなかった。階級が全ての世界で、将校は星一つ違うだけで大きな差があった。食物、衣服、寝る所など全て違った。将校には成績の良い兵隊が当番で付き、身の回りの世話はもちろん、風呂では上から下まで洗ってもらい、着替えまでさせてもらえるので何もしなくても良かった。命の保証さえあれば、将校は大変良い身分といえるかもしれない。
A氏は軍隊に通算で5年間所属していた。兵器などの勉強をし、階級も変り、弾の味も色々知り、大変な苦労をした5年だった。

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養老町では、高田小学校の校庭を使って軍事教練が行われていた。 一年志願とは、入隊中の費用を自分で負担する代わりに、微兵年限の2年1年に短縮でき、満期の時、将尉に任官できる仕組である。 将校は、軍隊の階級の事である。少尉・中尉・大尉は尉官、少佐・中佐・大佐は佐官と言った。表示位置は軍事教練を行っていた高田小学校校庭を示している。