A氏のお母様のご実家は垂井市の岩手(いわで)である。
当時高田の辺りでは、会社に勤めに出ることが珍しく、農協か役場しか勤める所がなかった。A氏のお父様は農協の組合長をしていたが、あまり仕事で忙しくしている感じではなかった。
家は呉服屋をしていた。戦時中、木綿、絹、毛、麻などの繊維の代用として、スフ(ステープルファイバー、人造絹糸)があった。スフは今のナイロンが出る前の物で、ナイロンに比べてちゃちな繊維であった。このような物を扱っていても、将来性がないということで廃業した。
上石津町牧田、養老町上方、大垣市多芸島町等あちこちに二町くらいの田圃があり、収穫になると小作の方が年貢米を持ってきたので、なんとか食べていけた。
A氏の父方の兄弟姉妹は、7人いた。しかし男兄弟は、お父様以外は皆亡くなり、後は女性ばかりでわがままに育ったようだ。
高田町には2軒のビリヤード場があり、昼間からでも遊ぶことが普通の生活であった。麻雀、囲碁の景品が家にあったのを覚えている。
A氏も男1人の3人兄妹であった為、お父様としてはこの家に留めておきたかったようである。当時、師範学校を出て4月~夏休み終わりまで軍隊へ行けば、下士官適任証が貰え、それ以降軍隊に行く必要はなかった。その制度は文部大臣・森有礼(もりありのり)が作った、子どもの教育をする人材確保のために教員を優遇する制度であった。また、赴任先は大体養老郡内であった。その為お父様は、A氏を教員にしたいと考えたようである。
そのことを知らなかったA氏は、丁度東京にお姉様がみえたので、東京商大(一橋大学の前身)の試験を受けに行った。第一次試験の合格通知が家に届いたが、それを見たご両親に県外に行かないように頼まれたので、師範学校へ進学した。
しかし、A氏が卒業する年から優遇制度が廃止された。その1年前に卒業して学校の先生になった人は、甲種合格の、良い体格をしている人でも軍隊に行っていない。
A氏は若い頃から目が悪く、徴兵検査では甲種ではなかった。昭和15年(1940)に、今渡小学校へ赴任し、2年勤めた。
昭和17(1942)年に高田小学校に赴任するとすぐに召集令状が来た。高等1年生の受け持ちを1、2日間しただけだったので、子どもたちの名前と顔を覚えられなかった。復員後に、先生の受け持ちだったと生徒から言われて初めて知ったこともある。

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多芸島は大垣市多芸島町である。 足立敏男氏は昭和14年頃の高田町町会議員であった。 召集令状とは、太平洋戦争初期に国策により兵士を特別に召集するための書状で、その紙の色から赤紙とよばれた。戦時下では召集令状一本により拘束された。表示位置は教員を務めていた高田小学校を示している。