現在の押越3-13あたりに喰違堤(くいちがいてい)と言われる牧田川の堤防があった。高畑村の方から正面に牧田川の流れが当たるように設計されていて、そこから東の方に大きく湾曲していた。今の景陽寺の辺りでも水の当たる勢いが強いため、堤防が切れることもあった。一方、喰違堤の高さを超えるような水位になると金草川に流していたので、喰違堤から西の方で堤防が切れることは少なかった。
喰違堤付近の堤防が決壊したようである。元町の付近は水につかることはない。
普段は10~15cm程度の丸みを帯びた栗石(ぐりいし)と呼ばれる川石を盛っておいて、喰違堤が切れそうになったら栗石を取って金草川に水を流す仕組みだった。
寛保時代(1742-1744)の史料や元禄初年(1688)頃の喰違堤の史料がA氏が所有される資料の中で一番古い。
喰違堤に関する絵図は2枚あり、そのうち1枚は「島田村河原論裁許の事」という古文書で、町指定文化財であり、養老町が所蔵している。その控えをA氏が所有しており、2枚とも同じ年代に作成されたと思われるが詳細年月は不明である。
A氏所有の絵図には高田の東側、尻無し堤の辺りを中心に書かれている。町指定文化財の方は総合体育館の所にある高田の三昧に関する争いの記述と共に、喰違堤についても詳しく描かれている。特に多芸村多芸地区字南郷、字中屋、付近が詳しく書かれている。栗石のことについては元禄六年(1693)の「川除争論」に書かれている。喰違堤に関する争いや、喰違堤の実効などの史料は全くない。

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表示位置は喰違堤を示している。