北蛇持の了覚寺は長録元年(1457年)に建立された。初代の住職は専光坊という名で、蓮如上人のお供をして歩いていた。開基から浄土真宗のお寺として開かれ、山号は天保年間(1830‐1843)になってから付けられた。慶応年間(1865~1868)に本堂を再建した。
了覚寺は明治24年(1891)に濃尾震災で全壊した。
他所門徒は角田(すまだ)、垂井町宮代に少数、室原に佐竹家1軒がある。御代本には教如上人の裏書がある。
報恩講は昔は3昼夜披(ひら)かれたが、今は1~2昼夜に減っている。蛇持経塚の池に伝わる大蛇伝説と了覚寺は関係ない。
かつて1年の間に4回の水害が起こった年があり、稗も取れずに食物が無くなった。それでも了覚寺が取り潰しになることなく存続できたのは、自分達が食べられなくても寺に食べ物を持ってきてくれた農民の力による。お斎には一般庶民でもお膳を使った。
歴代住職の中には北陸まで2~3ヶ月かけて説教をしに行っていた者もいる。
相焼香(あいじょうこう)のことを了覚寺では相同志(あいどうし)という。明治頃からの制度で、寺同士の組合であり、お寺での葬祭は互いに行う。
門徒、男門徒、女門徒という制度があり、男性が移住してきた場合は移住先の寺の門徒になり、女性がお嫁に行くときは居住元のお寺から本人であることを示す「嫁送りの一札」を出していた。了覚寺にも記録があったが現在の家を建てるときに処分した。これらの記録は水を避ける為に、竹筒に入れて庫裏に吊るしていた。
蛇持は尾張藩領であり、尾張藩から人の出入りについて定期的に調べに来ていた。

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大蛇伝説=養老町史通史編下巻P.964。 お膳が庶民に浸透したのは江戸後期から明治時代頃かといわれている。 嫁送りの一札=送り状。共通項目にあり。 表示位置は了覚寺を示している。