飯積の干拓
飯積の干拓地は元、小字で小物成(こものなり)と呼ばれたように、作物が採れない土地であった。米以外の野菜で年貢を納めた。河間田(がまだ)という小字名もある。 飯積の干拓は、現在の大垣養老高校の北、飯積字小物成地区から土を運んだ。
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
多芸東部
飯積の干拓地は元、小字で小物成(こものなり)と呼ばれたように、作物が採れない土地であった。米以外の野菜で年貢を納めた。河間田(がまだ)という小字名もある。 飯積の干拓は、現在の大垣養老高校の北、飯積字小物成地区から土を運んだ。
明治の頃までは多芸橋は大きな橋ではなく、木造の小さな橋であった。
養老山の土地を白石、押越、島田、直江で争い、代官所で裁判が行われた。 養老山に直江の土地があり、その部分は小谷山(おたにやま)と呼ばれる。小谷山では、薪、牛馬の餌になる草などを採った。直江には鍛冶職人が多く住んでいたといわれ、燃料となる薪が直江の山から取れる [...]
金屋の春日神社では「どじょうまつり=土壌祭り」という行事が行われていた。