養老町の歴史文化資源の発見・普及を目指して設立した当ホームページは、「私たちが暮らす養老町への関心を喚起すること」を目的に運営しています。

養老町の歴史文化資源

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草相撲の横綱「千代田川」。

2012.02.28

tiyodagawahi.JPG

 

養老町泉町には、多芸郡内の相撲大会で、負け知らずの力士がいました。

 

しこ名は「千代田川(ちよだがわ)」。

本名は高木千代次郎で、明治36年(1903)12月20日、養老町泉町に生まれました。

 

自転車で各大会をまわり、大正13年(1924)には、岐阜県角力(すもう)協会から「千代田川(ちよだがわ)」の号を授かるのですが・・

その翌年の10月24日に、21歳の若さで亡くなってしまいました。

 

現在、養老町三神町の多岐神社の東道路向かいにある、「嗚呼力士千代田川碑」は、この千代田川の霊を祀るため、多藝村西支部青年団と多藝村大墳多岐有志者によって建てられたものです。

 

ちなみに、地元では、戦後遺族らによってお墓を一つにするために遺骨をまとめたとき、この千代田川の遺骨がひときわ太かったという話を聞くこともできました。

やはり、巨漢だったんでしょうね。

酔竹さんの朱竹。

2012.02.06

suitikushutiku.JPG

 

 

先週の週末、養老町船附の紫雲山法覚寺(ほうがくじ)で、安田酔竹(やすだすいちく)が描いた朱竹(しゅちく)の絵を見せて頂くことができました。

 

安田酔竹は、明治23年(1890)に法覚寺の長男として生まれた人物で、笠郷地区の郷土資料でよく紹介されている郷土の画家です。

竹を題材とした作品が多かったみたいですね。

 

実は、私の家にも一つ知人に描いていただいた朱竹の絵があります。

ただ、酔竹さんのことを知るまでは、これが縁起のよいものとは知りませんでした・・

 

その方にお会いしたら、改めてお礼したいと思います。

土屋輝雄展をみてきました。

2012.01.16

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1月13日からはじまった「土屋輝雄展」に行ってきました。

 

展示室には、病床日記とともに、生き物の素描などが展示されていて、土屋輝雄の作品の魅力だけでなく、その人柄にも触れることができました。

日記には、高田祭りに出かけたことがわかる記述もあって、面白かったです。

また、素描につけられたたくさんの注釈は圧巻で、ものをみることに妥協がない様子から、イメージしていた人物像を修正することもできました。

 

この展覧会は、2月12日まで。

ぜひ、ご覧下さい。

土屋輝雄展が開催されます。

2012.01.06

tutiyateruotenH24.jpg

 

来週の金曜日から2月12日まで、中山道広重美術館(恵那市大井町)で、「土屋輝雄展」が開催されます。

第36回岐阜県移動美術館として、(財)中山道広重美術館と岐阜県美術館が主催するもので、入場は無料です。

 

土屋輝雄は、養老町高田出身の日本画家で、昭和37年(1962)に57歳で亡くなるまでに、身近な生き物の、精緻な素描を数多く描いた人物。また、昨年養老町の名誉町民章を受賞された土屋禮一氏の父親でもあります。

 

会場が恵那市で、養老町からはちょっと遠い感じもしますが・・

おそらく、土屋輝雄の作品を一度に見ることができるはじめての展覧会だと思います。

養老町でも、心待ちにしていた人が多いのではないでしょうか。

 

1月14日(土)には、長男である土屋禮一氏による記念講演会も予定されているので、ぜひこの機会に土屋輝雄の世界に触れてみて下さい。

 

詳細はこちらからどうぞ。

板挟みになった早野有章。

2011.12.15

tanakaohidesyokan.jpg

 

 

早野有章(はやのゆうしょう)は、明和8年(1771)に養老町高田の商家に生まれた人物で、養老美泉論争を戦った田中大秀(たなかおおひで)と、秦鼎(はたかなえ)の両方に師事していました。

 

その為、彼のもとには、2人の先生から、それぞれ気の重くなるような手紙が届いています。

 

養老の滝派である田中大秀からは「養老美泉を送るから、売ってくれないか。秦鼎が建立した美泉銘碑には嘘が書かれている」といったもの。(写真上)

 

一方、菊水泉派の秦鼎からは「最近の国学者(田中大秀)は他人の非難ばかりで悲しい。」といった皮肉を込めた内容のものでした。(写真下)

 

偉大な2人の先生の間での板挟みは、さぞかし辛いものだったでしょうね…。

 

この手紙は、現在も大切に保管されており、「養老美泉辯註 田中大秀・秦鼎書翰」として、養老町の重要文化財に指定されています。

 

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「養老町が生んだ国学者田中道麿さん」デジタルデータの公開。

2011.11.29

tanakamitimarosannews.jpg今日から、電子書庫で「養老町が生んだ国学者 田中道麿さん」のデジタルデータを公開しています。

 

データ形式は、PDFとEPUBの2種類です。

 

ただ、EPUB形式の方は、現段階では横書きでの公開となっています。

そのため、もし、縦書きが良いという方があれば、PDFデータの方を選択して下さい。

 

なお、本を手にとって読みたいという方には、冊子の一般販売も引き続き行っております。

こちらもぜひ、ご利用下さい。

 

高橋千里(たかはし せんり)

2011.11.09

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江戸時代、笠郷地区には6つの寺子屋がありました。その中で一番古く、たくさんの門人を集めたのが、高橋千里の寺子屋です。

 

享保2年(1717)養老町栗笠に生まれた高橋千里は、読書が好きで、勉強を続けるうちに、人にも教えるようになり、自宅で寺子屋を始めました。この寺子屋は評判が良く、尾張や伊勢から学びに来る人もあり、門人の数は500名以上にのぼったといわれています。

 

また、高橋千里は大津の代官所で役人を務めた経歴ももっています。

 

安永4年(1775)、五十八歳で亡くなりましたが、その後、門人達により養老寺境内に顕彰碑が建てられました。

「養老町が生んだ国学者 田中道麿さん」校了。

2011.09.27

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現在、養老町教育委員会では、田中道麿の生涯をまとめた冊子を作成中で、ようやく昨日校正を終了することができました。

来月4日の慰霊法要に間に合いそうで、一安心しています。

 

この田中道麿は、養老町が誇る国学者で、万葉集の研究に大きな功績を残した人物。 

とても立派な方なのですが、地元では、よく「さん付け」で呼ばれています。

 

その生涯や歌に触れると、なぜか親しみを感じてしまうのが、田中道麿という人物の魅力ですよね。

私も、今では、「道麿さん」と呼んでいます。 

 

そのためというわけでもないですが、冊子の名称は「養老町が生んだ国学者 田中道麿さん」に決まりました。

10月4日以降、関係機関に配布を開始し、希望者には販売も行う予定です。

また、少し遅くなるかもしれませんが、電子書庫でも公開します。

 

みなさんも、ぜひ一度、目を通してみてください。

きっと、道麿さんのことが好きになると思います。

先賢田中道麿大人発祥地石碑。

2011.09.02

s32mitimaroseitanti.jpg

 

現在、田中道麿翁の生誕地には、「先賢田中道麿大人発祥地」と刻まれた石碑が建っています。

 

この石碑、建てられたのは顕彰碑と同じ昭和32年(1957)なんですが・・

実は、つくられたのは戦中の昭和18年(1943)の1月だったそうです。

 

制作したのは、当時の広幡村長だった丸毛治基さん。

個人で企画したのですが、そのときの土地所有者の理解が得られず、14年もの間、石工の庭先に保管されていたそうです。

紆余曲折あったんでしょうね・・

 

上の写真は、立石が叶ったころのもので、村の人はちょっと頭を下げてこの石碑の前を通るようになったそうですが、現在は、個人宅の裏庭にひっそりとたたずんでいて、人目には触れていません。

 

丸毛さんは、きっとがっかりしてるでしょうね・・

養老町文化財保護協会設立総会。

2011.07.28

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上の写真は、養老町文化財保護協会設立総会の様子を撮影したものです。

 

撮影されたのは、昭和46年5月22日。

さらに時計が写っているので、10時半過ぎであることも分かります。

 

ということは・・

今年は、養老町文化財保護協会設立40周年にあたるんですね。

先週取り上げた根古地薩摩工事義歿者墓の慰霊堂の建立も昭和46年でした。

 

どうやら昭和40年代の中頃は、養老町の文化財保護に大きな変化が訪れた時期であるようです。

 

そして、この養老町文化財保護協会は、設立当初からずっと「養老町の文化財」という機関誌を発行していて、その記念すべき第1号には、初代会長である村上弁二氏が、設立の意義と、会長を務める覚悟を綴っているのですが・・

 

この一文が、40年経った現在においても、まったく色褪せておらず、今後も指針とすべき内容をもっていることに改めて頭が下がります。

 

なんだか、目の前に座らされて、叱られているような気分になりました・・

日比野鶴翁(ひびのかくおう)の襖絵。

2011.07.15

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江戸時代、養老町高田には日比野鶴翁という画家が住んでいました。

鶴翁は写実的な作風が特徴である南蘋派(なんびんは)の画家としても活躍していたのですが、その一方で豪快で華やかな作品を遺しています。

 

その1つが高田の景陽寺にある襖絵です。

庫裏に保管されているので、普段は見ることはできませんが、ホームページの作成時に特別に見せて頂きました。

 

とても華やかな作品で、初めて見たときの感動は忘れられません。また、松や花などの植物の中に鳥が隠れるようにして描かれていて、鶴翁の遊び心も感じることができました。

 

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僕がこの絵を見たのは約2年前。それ以来いろいろな文化財に触れる機会に恵まれましたが、この作品は特に素晴らしかったです。

上方の彫刻師

2011.05.19

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養老町沢田の真泉寺には、天女たちが楽器をもち、舞いながら演奏する狭間があります。これを彫ったのが、先週紹介した彫忠の弟子である佐竹民弥(さたけたみや)です。

 

天女の柔和な表情が魅力的な作品ですが、師匠の作品とはどことなく雰囲気が違うような気もします。

 

民弥は文化6年(1809)年に現在の大垣市十六町で生まれ、彫忠のもとで学びました。もともとは、佐竹民蔵と名乗っており、真泉寺の狭間の裏にも、その名前が墨書されています。

 

民弥という名に変えたのは、安政4年(1857)頃に養老町上方へ移り住んでからのようです。

 

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民弥の作品は、養老町以外でも、大垣市や垂井町、滋賀県長浜市等に遺されており、「民弥彫り」と呼ばれています。

 

沢田真泉寺の狭間について詳しくはこちらから

高田の彫刻師

2011.05.11

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江戸時代の高田には、彫忠(ほりちゅう)と呼ばれた彫刻師がいました。

本名は早瀬忠兵衛で、天明5年(1785)に生まれました。

 

養老町には、この彫忠の作品が多く残されており、その中には西町車山の木彫のように、立川専四郎・和四郎兄弟の作品と共に岐阜県の有形文化財に指定されたものもあります。

 

 

いよいよ来週は高田祭。

彫忠の作品は、立川兄弟のものに比べると小さいので判りにくいかもしれませんが、興味のある方は、ぜひ探してみてください。

伊藤重松(いとうじゅうまつ)

2011.02.24

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養老町では、たくさんの人が米の増産に力を注いできました。養老町下笠に生まれた伊藤重松さんもその1人です。

 

重松さんは、「自分も植物になりきらないと、植物の状態はわからない」という信念を基に、朝夕、欠かすことなく、稲の育ちぐあいを観察し、土づくりや水量の調整をしました。その結果、驚くほど収穫量が伸びたそうです。

 

また、戦中戦後の貧しい時代に「アンモニア水稲栽培法」を考案し、岐阜県内だけでなく、三重県や愛知県にまで、その技術を伝えました。

 

昭和37年(1966)には、指導を受けた人達によって、下笠に石像も建てられています。

 

きのう紹介した銀蔵さんと重松さんは、同じ養老町笠郷地区の出身で、年齢は銀蔵さんが18歳年上。互いに切磋琢磨して、技術の向上に励んでいたかもしれませんね。

川口銀蔵(かわぐちぎんぞう)

2011.02.23

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養老町上之郷(かみのごう)の集会所の南に、写真の石像が建っています。これは、米作に力を注いだ川口銀蔵の石像です。

 

銀蔵さんは明治12年(1879)に上之郷で生まれました。

米の増産を目指し、肥料として硫安を使用しました。また、独自の研究を重ねた結果、当時1反(10アール)あたり5、6俵の収穫であったのに対して、8俵の収穫に成功したそうです。

 

さらに栽培だけでなく、指導にも熱心で、養老町内はもとより、現在の安八郡や海津市、本巣市まで足を運び指導をしました。

 

地元で銀蔵さんについて伺うと、すぐに石像の話題になります。

この石像、不思議な形をしてますが、似てるのかなぁ。

鬼頭家の墓所。

2010.12.06

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宝暦治水工事に着任した薩摩義士に、工事の総本部となる土地建物を提供したのが、大牧(現在の養老町大巻)の鬼頭兵内です。兵内は、大牧新田の開拓者でもあり、91歳まで生きました。

 

先日の聞き取り調査で、この鬼頭家の墓所が、養老町大巻地内にあることを知りました。

墓石に刻まれた文字からも、ここが鬼頭家のものであることは間違いないようです。

 

 

 kitoukebohi.JPG

 

ただ、兵内本人の墓がここにあるかどうかは確認できませんでした。 

息子の七之丞は南濃町の円満寺に葬られていることもあり、少し慎重に検討したほうが良さそうです。

一生を公共事業に捧げた渋谷代衛(しぶやだいえい)

2010.12.02

kouenkannko.JPG

 

12月に入り紅葉も見頃を過ぎて、観光客で賑わっていた養老公園も、少し落ち着いたように感じます。

 

明治13年(1880)に開設された養老公園は、今年で130年を迎えました。このことから、多くの人々が養老公園を支えてきたことがわかります。その1人に養老町大野で生まれた渋谷代衛がいます。代衛は同志たちと共に資金を集め、養老公園に道路を新設。さらに、桜や楓を植えて景観の整備に取り組みました。

 

 

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この他にも様々な公共事業に尽力し、当時の金額で約5万円にのぼる私財を投じたといわれています。しかし、功績が自分の名誉となることを好まなかったため、功績の多くを他人に譲ってしまいました。

 

また、「母より先に寝たり、後に起きることはなかった」という逸話が残っており、その道徳心の高さを感じさせられます。

 

daiei.JPG

 

その後、代衛は明治29年(1896)8月18日に亡くなりましたが、明治36年(1903)に有志によって、養老公園内の唐谷橋(からたにばし)付近に顕彰碑が建てられました。

 

 

渋谷代衛についてはこちらもご覧ください。

道麿さんのお墓参り

2010.11.08

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養老町飯ノ木で生まれた国学者、田中道麿翁のお墓は、名古屋市の平和公園内にあります。

翁は天明4年(1784)に名古屋の常端寺で亡くなり、この時お墓も同寺に建てられたのですが、その後、千種区の平和公園内に移され無縁仏となっていたためです。

 

今日は、そのお墓参りが行われ、山口副会長を始め顕彰会役員5名が参加しました。

 

名古屋までお参りに行くのは少し大変でしたが、郷土から離れた土地で功績を残した翁の存在を実感することができました。

北尾春圃顕彰祭

2010.10.21

077kitao_kensyo.jpg

 

北尾春圃は養老町室原に生まれ、江戸時代に名医として知られていた人物で、診察を受けようとした患者が門前に列をなしたことや、仙台藩が春圃を召し抱えたいと申し出たとき、それを惜しんだ大垣藩主が多くの蔵米を与えてとどまらせたという逸話が残っています。

 

正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使が大垣に宿泊した時には随行の医師と会談し、その様子を「桑韓医談」として出版しました。また、詩や漢学にも造詣が深く、享保4年(1719)に第9回朝鮮通信使が来た際には、詩を詠んで使節団を接待したといわれています。

今度の10月24日(日)、午前10時より北尾春圃顕彰祭が福源寺の顕彰碑前にて行われます。

 

北尾春圃について詳細はこちらをご覧ください。

 

 

なお、本日はサーバーメンテナンスの予定でしたが、早く終了したので更新しました。

久保田象外先生

2010.07.27

syougai.jpg

 

久保田象外先生は養老町別庄の高名な学者です。

 

弘化元年(1844)12月2日に生まれ、9歳の時に橋爪の村上杏園先生について漢学を学びました。

 

その後も京都の高倉学寮(現在の大谷大学)、大垣の澹泊(たんぱく)塾、大分の咸宜園(かんぎえん)で勉学に励み、明治6年(1873)帰郷。別庄で家塾を開き、以後30年間、近隣の子ども達に指導・教授を行いました。

 

門下生達は養老町内はもとより、合原(垂井町)、牧田(大垣市)など、各地の指導者として地域に貢献しました。

 

明治36年(1903)、多くの人々に惜しまれつつ60歳でその生涯を閉じ、翌年に門下生達によって象鼻山の麓に顕彰碑が建てられました。

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