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桜井の代参選び。
2014.01.20
徐々に少なくなってきていますが、養老町には、伊勢代参(いせだいさん)という行事が残っています。
ちなみに、伊勢代参とは、集落を代表して伊勢神宮に参拝し、集落の五穀豊穣や無病息災などを願うこと。
集落によって、違いもありますが、代参者を「くじ」で選ぶのは比較的共通しています。
上の写真は、そんな「くじ」の様子を、養老町桜井の白鳥神社で撮影させていただいたもの。
宮当番だけが集まり、宮役の方がふって出た紙に書いてある名前の方が当たりというものでした。
選ばれた人には、その後で知らされます。
私の住む西岩道では、全員が集まる中、自分でくじを引くので、その違いがとても新鮮でした。
船附の沖積世基底礫層。
2014.01.16
先日、養老町船附で地盤調査を行っていた方から、その周辺の沖積世基底礫層の深さが地表下約68mであることを教えていただきました。
ちなみに、沖積世基底礫層(ちゅうせきせいきていれきそう)とは、洪積世と沖積世の境界をなす堆積層のこと。
大雑把にいうと、約1万年前の地表面を形成していた土層のことになります。
これまで、養老町の沖積世基底礫層の深さは、おおよそ地表下50~70mの間に収まるものと勝手に思っていましたが、養老町でも東部に位置する船附で68mを測ることを考えると、町内には70m以上の深さに達しているところもあるかもしれませんね。
話しを聞く程度ですが、引き続き情報収集を続け、養老町の最終氷期を考える手掛かりにしたいと思います。
一夜地蔵。
2014.01.15
養老町大野の覚林寺の西側には、一夜地蔵と呼ばれているお地蔵さまがいます。
養老町史によると、大正時代中頃のある夜、だれかが大野の堤防にお地蔵さんを置いていったため、一夜のうちに突然現れたことから、一夜地蔵と呼ばれているようです。
村の人からすれば、突然のことだったでしょうが、それでもお堂を建ててお地蔵さまを安置することにされたみたいですね。
現地を確認した時に、地元の方に少しお話を伺ってみると、地蔵堂は以前、大野村の堤防にあったようで、大野村が堤防の東から西に移るのに伴い、一夜地蔵を現在地に移したことを教えていただきました。
ただ、大野村が移動した時期や状況があまりはっきりと分からないので、もう少し調べてみる必要がありそうです。
ちなみに、お地蔵さまの足元の石台には「大野村内二 四十六」と書かれていることも確認できました。
なにか、お地蔵さまを知る手がかりになりますかね。
1月24日あたりに初地蔵が行われるそうなので、私もお参りに行って、もう少し詳しくお話を伺いたいと思います。
桜井の粥占い。
2014.01.14
養老町には、粥占い(かゆうらない)といわれる、小豆粥で、その年の作柄を占う風習が残っています。
大釜で小豆粥を煮る際に、竹の管を入れ、小豆や粥の詰まり具合を見て占うというもので、小正月の頃に、左義長とあわせて行われることが一般的ですが、作柄数や天候、全体運など、占う内容は、地区ごとにそれぞれ異なっています。
ちなみに、上の写真は、この月曜日に桜井区で行われた粥占いの様子を撮影したものです。
春作の部の、麻・小麦・紫雲英(レンゲ)・大豆・小豆・落花生・芋・甘藷(サツマイモ)の8品目と、夏作の部からの、山科・こしひかり・早生餅・日本晴・中生千本・初霜・晩生餅の7品目に、照りと総札を加え、全17項目が占われていました。
その結果は、総札が7分と、全体的には、去年よりも良い結果が得られていましたが・・
春作の部では、芋の2分など、やや不安の残る結果もでていました。
少し注意が必要ですかね。
烏江の地名の由来。
2014.01.09
養老町には、烏江(からすえ)という地名があります。
ちょうど、養老鉄道が牧田川を渡るあたりのことで、江戸時代には、ここで牧田川と杭瀬川が合流していて、烏江は川湊として栄えました。
ちなみに、烏江という地名の由来も、中国貴州省で南北2つの大きな川が合流する烏江(うこう)という場所と風景がよく似ていたために付いたとされているみたいですね。
現在、牧田川と杭瀬川は分流されており、烏江(からすえ)に烏江(うこう)の面影はあまり残っていませんが、近くを通りがかった際には、二つの大きな川が合流していた昔の烏江の様子も想像してみて下さい。
昭和11年の高田商店街。
2014.01.08
先日、昭和11年(1936)に撮影された高田商店街の写真を見せていただく機会がありました。
高田中町で仕出しを生業としていた家のご主人が亡くなったときのお葬式の様子を撮影したもので、位置関係としては、一番手前に写っている電柱の位置が、中町と西町の境だと思います。
近代の高田商店街の様子が分かる貴重な一枚で、棺の四隅に孫灯籠が写り込んでいたりと、当時の養老町のお葬式の様子を知る上でも、いくつか参考になる点がありました。
ただ、そんな中で、ちょっと気になったのが、左下に写り込んだ喪主の家の前に立てられたしきび(樒)の位置。
隅っこなので、はっきりとは分かりませんが、通りに合わせて立ててあるような気がしますよね。
養老町のお葬式では、しきびは、喪主の玄関口に立てられるのが一般的で、村葬などの場合に、式場の入口に立てられているのは見たことがあるのですが、道の真ん中に立ててあるものは初めてでした。
大きなお葬式のようなので、そのためなんですかね・・
また、機会を見て、高田の方に理由を尋ねてみようと思います。
象鼻山の冬至。
2013.12.24
22日の冬至に合わせ、象鼻山の日の出の位置を確認してきました。
観測地点は象鼻山1号墳の後方部で、観測時刻は6時57分です。
手元のコンパスで、古墳の主軸(北北西-南南東)から約30°ほど振った位置からの日の出でしたが・・
これが象鼻山1号墳の諸要素と関係があるかどうかについてはよくわかりませんでした。
来年は、少し観測地点を変えてみる必要がありますかね。
とはいえ、眺望の良い象鼻山から冬至の日の出を見ることができただけでも、十分に早起きした価値はありました。
竜泉。
2013.12.16
養老町竜泉寺の山中には、地名の由来になったともいわれる、長さ70m以上・内法約60cm四方の堅固な暗渠水道が残っています。
竜泉と呼ばれていて、町史などで、「大鐘乳洞の水を導いているようである。途中まで這って入ることができ、石積みの内部が鐘乳化していることから非常に古い時代のもので、おそらく竜泉寺創建の際に構築されたと思われる。」と紹介されていることから、ずっとその内部が気になっていたのですが・・
今日、ついに地元の方々の協力を得て、竜泉の内部確認を行うことができました。
ありがとうございます。
個人的には、これが中世竜泉寺の遺構である可能性を探ることが最大の目標でしたが、これについての手掛かりは得られませんでした。
そもそも、いつ、誰が、何のために、こんなものを必要としたんでしょうね。
分からないことばかりですが、水が流れ落ちる内部にカメラを持ち込むことができたことで、これまでになかった映像データを得ることができたと思います。
また、鍾乳化した側壁や、内部が徐々に上がっていくこと、天井石に大きな一枚岩を使っていることなども確認できました。
上の写真は、その竜泉の内部を撮影したものの1枚で、撮影ポイントは出口から約40m中に入ったところ、狭い上、水が流れ落ちる中で、なんとか水滴に邪魔されずに撮影できた貴重なカットです。
ちなみに、地元の方によると、少し無理をすれば、まだここから奥に入っていけるそうですが、調査はここまでにさせていただきました。
一説には、全長200mにも及ぶとされる竜泉寺の暗渠水道。
その流路上にあたる地表面だけは、雪解けが早いという噂もあるので、今後の調査は地上からアプローチしていこうと思います。
養老寺の隠れ小屋。
2013.12.12
三方山スキー場跡。
2013.12.09
先週の金曜日、三方山スキー場の現地確認に行ってきました。
三方山スキー場というのは、昨年「養老スキー場」として紹介したもので、その後、昭和6年(1931)の借地契約書が見つかり、三方山近くの笹原峠にあったことが明らかになっていました。
上の写真が、そのスキー場があった場所を撮影したものになります。
当時の写真と同じ視点から撮影してみました。
案内していただいた白石の方によると、昔はもっと笹が多かったようですが、今はアセビの方が目立つようになっていましたね。
ひょっとしたら、鹿が増えてきていることに因るのかもしれません・・
この他には、当時の休憩小屋跡なども確認することができました。
それにしても、養老の滝からスキー場まで登るのにかかった時間は、おおよそ1時間30分。
当時の人たちが、板を担いで登っていたことを思うと、なんとなくこのスキー場が長続きしなかった理由が分かるような気がしますね。
勢至の愛宕地蔵。
2013.12.05
養老町勢至には、滋賀県長浜市の姉川から戻ってこられたお地蔵様がいます。
戻ってきたのは大正年間のことで、勢至から長浜へ養子にいかれた方の夢に出てきて、「帰りたい。帰りたい。」とおっしゃったため、その方が背中に背負い、10里(約40km)の道のりを歩いて、今の場所に戻したそうです。
ちなみに、お地蔵様が姉川へ移ったのは、勢至が衰退する中世末期のことと伝わっているみたいですね。
なぜか、地元では愛宕地蔵と呼ばれているのですが、その理由はよく分かっていません。
ただ、当番によって、毎日御佛飯とお水がお供えされるなど、大切にお世話されていますし、お堂のある場所は見晴らしが大変素晴らしいので、お地蔵様もきっと今の場所に満足されていると思います。
象鼻山の景観回復作業が終了しました。
2013.11.22
今週の月曜日からはじめた象鼻山の景観回復作業が終了しました。
これにより、また少し象鼻山の景観がよくなったと思います。
お手伝い下さった方々、本当にありがとうございました。
ちなみに、この5日間で山から下ろした倒木の総重量は7,690kg。
しかし、目指す姿になるまでには、まだずいぶん時間がかかりそうです・・
それでも、登る価値は十分にあると思いますので、本当に寒くなる前に、ぜひ一度、象鼻山に上がってみて下さい。
鼬川の清泉。
2013.11.20
養老町橋爪には、養老郡史の編纂者である大久保休吾さんが選んだ橋爪八景があり、その中の一つに、「鼬川(いたちがわ)の清泉」があります。
この鼬川は橋爪の別庄区を流れていた小さな川のことで、その清泉は別庄区にとって貴重な水源だったのですが・・
いつの頃からか、水が濁るようになり、現在では墓地で利用されています。
ちなみに、その現在の様子を撮影したものが下の写真。
大久保休吾さんのメモには、この鼬川の清泉の紹介として「神代より 絶えず流るる いたち川 鏡の如き 澄み渡りけり」という歌が添えられていましたが・・
かろうじて、石塔物に面影が残っていますかね。
ひきつづき情報収集を続け、その当時の写真などを探してみようと思います。
お経を読むお地蔵さま。
2013.11.15
養老町瑞穂の大代(おおじろ)には、お経を読むと伝わるお地蔵さまがいます。
墓地に並ぶ7体のお地蔵さまがそうなのですが・・
お経を読むときは誰かが亡くなる直前だと聞かされた後では、あまり積極的に確認する気にはなれませんよね。
それに、お話を聞くことができた方の中に、実際にお経を聞いたことがある方はいませんでした。ただ、聞いたという人から話を聞いている方はいて、その方によると、とても澄み切った声だったそうです。
ちなみに、お経を読む時間帯は夕方遅くからみたいですね。
この他に、池辺地区でよく耳にする、村で結婚式があると、お地蔵さまをその家の軒先に運び込むという習慣が、大代にもあることが分かりました。しかし、大代では、この7体の中から2~3体を選ぶことが多く、お供えも御仏飯(おふくさん)だったみたいです。
この情報はタギゾウくんの養老ナビに登録してあります。
会いに行くかどうかは、自身でご判断くださいね。
源氏橋の養老公園道標。
2013.11.12
養老町飯ノ木の源氏橋のそばに、「源氏橋 自出十八丁養老公園」「明治十三年 多藝郡飯ノ木村」と刻まれた道標が建っています。
明治13年(1880)は養老公園が開設された年なので、飯ノ木村が養老公園の開園にあわせて、道標を設置したんでしょうね。
当時、すでに滝谷沿いに養老公園へ向かう道があったことを示す貴重な文化遺産だと思います。
この他、ちょっと気になるのが、奥に写る石製の源氏橋を架け替えた年号が大正4年(1915)になっていること。
元の源氏橋は木製だったらしいので、ひょっとしたら、この道標は木製の源氏橋のそばに建てられたものだったのかもしれませんね。
五三川で見つかったお地蔵さま。
2013.11.11
養老町瑞穂の大代(おおじろ)の地蔵堂には、もともとお祀りしていたお地蔵さまの他に、川底で発見されたと伝わるお地蔵さまがお祀りされています。
上の写真の、前列に立っている小さなお地蔵さまが、そうなのですが・・
よく見ると、頭部が損傷していて、後から修復されたことが分かりますね。
地元でお話を伺ってみたところ、どうやら70年ほど前に、五三川で発見された後、しばらくは近くの個人宅でお守りされていたのですが、やがて地区の地蔵堂の中で一緒にお守りされるようになったみたいです。
頭部が損傷した時期については、詳しいことは分かりませんでした。
ちなみに、地蔵堂の元位置は林照院のそばの五三川堤防上でしたが、30年ほど前の護岸工事で、現在地である村の中心に移すことになったそうです。
このお地蔵さまの情報は、タギゾウくんの養老ナビに登録してあります。ぜひ一度訪ねてみてください。
旧養老公園事務所の鬼瓦。
2013.10.28
先日、旧養老公園事務所に葺かれていた鬼瓦の写真を見る機会がありました。
昭和59年に、養老公園事務所が高林地内に移された際、従来の建物を修繕することになり、廃棄処分されそうだったところを地元の方が収集したそうです。
笠松では知事官舎として使用されていたことを踏まえると、製作されたのは岐阜司町から移築したときでしょうね。
これにより、最初の養老公園事務所の移築が、ただ建物を移すだけでなく、部分的な修繕やデザインの変更を伴うものだったことがわかります。
それにしても、立派な鬼瓦ですね。
大きく「公園」と刻むところなど、個人的にも、好みのデザインです。
えびぞうすいの仏様。
2013.10.24
養老町瑞穂の林照院に、「えびぞうすいの仏様」と呼ばれている仏様がいます。
この不思議な名前は、天明の飢饉(1782~1786)の頃、満足なお供えができず「ひえぼとけ」と呼ばれるようになり、美作(現在の岡山県)へ移ってしまった仏様が、大正8年(1919)に養老町瑞穂に戻ってくることになり、今度こそはということで、五三川で取れるもえびの入った美味しいぞうすいをお供えしたことに因るそうです。
地元に伝わるお話によると、えびぞうすいを供えるようになってから、ひえぼとけのお顔はふっくらするようになったみたいですね。
そんな仏様を撮影させていただいたものが上の写真です。
特別に見せていただくことができました。
善導大師という中国唐代の人物の尊像だそうです。
その表情は朗らかで、ひえぼとけと呼ばれていた面影は、もうありませんでした。
養老駅前区の公民館。
2013.10.23
養老鉄道ができたばかりの頃、その運行本数は2時間に1本でした。
そのため、駅前は、列車待ちをするお客でたいへん賑わい、土産屋や菓子屋、料理旅館などが建ち並んでいたみたいですね。
しかし、人が集まると、自然と増えるのがトラブルの数。
特に桜の季節は、お酒の勢いでよくケンカがあり、商店主たちは困っていたそうです。
そして、その解決策として実施されたのが、請願巡査の配置でした。
ちなみに、請願巡査とは、自治体や企業、個人などの請願に基づいて配置される警察官のこと。
その費用は、請願者の負担となるので、駅前商店13件がお金を出し合って、駐在所を建てたみたいですね。
この建物は、現在も駅前に残されており、養老駅前区の公民館として使用されています。
大正2年の養老駅前。
2013.10.22
先日、養老鉄道開通を迎えた養老駅前の写真を見ることができました。
大正2年(1913)に撮影されたものです。
たくさんの人力車が写っていますね。
このときの観光客の乗り物は、人力車がメインで、いつも10~15台の人力車が駅前で客待ちをしていたそうです。
また、養老公園へは上り坂が続くので、お客1人を運ぶのに、先引きと後押しで3人も必要だったみたいですね。
そんな風で、大変賑わいを見せていた養老鉄道開通当時の養老駅前。
この写真を見ていると、この翌年に養老自動車を起こす山田貞策さんの気持ちが少し分かるような気がします。