栗笠(くりがさ)の獅子舞(ししまい)は、養老町栗笠(ようろうちょうくりがさ)にある福地(ふくち)神社の祭礼に奉納されてきた獅子舞です。
栗笠は、江戸時代を中心に、湊町として繁栄しました。この湊の有力者であった佐藤家が、家運の隆盛・五穀豊穣・村内の安全を祈願するために、福地神社の祭礼に獅子舞を奉納させたのが起源と伝えられています。
伊勢神楽(いせかぐら)の流れを汲んだ三段獅子で、滑稽、軽業(かるわざ)的な要素が多く、その種目は48に及びます。船頭達が、様々な地域で活躍し、見聞したものを取り入れた結果、このように多くの種目になったと推定されています。
福地神社は、栗笠の村社であり、その祭神は大物主神です。境内には隼人神社、白山神社、金刀比羅神社、御鍬神社、秋葉神社、馬神神社、春繁稲荷大明神(はるしげいなりだいみょうじん)が鎮座します。
祭礼は、古くは10月4・5日に行われていましたが、近年は、社会の変化に合わせ10月5日に近い土曜日に試楽、日曜日に本楽が行われています。祭礼では、神事や獅子舞奉納のほか、祭り踊りも奉納され、境内には大提灯、切子灯籠、紅灯籠が献灯されます。
栗笠という地名を古文書に確認できるのは16世紀中頃からですが、近年の調査により、13世紀初頭には、福地神社の元位置を中心に、人が住み始めたことが分かっています。
絵図によれば、その後17世紀頃までには現在の牧田川堤防沿いの町通りに中心を移しました。川湊として発展した栗笠ですが、大垣の船町湊が発展するにつれて衰退し、明治維新の頃には湊としての機能をほぼ失っていました。
栗笠は、牧田川沿いの湊町である烏江(からすえ)・船附(ふなつけ)と共に発達し、江戸時代には濃州三湊(のうしゅうさんみなと)と呼ばれました。
濃州三湊は、近江や桑名、名古屋、さらに遠く江戸とも結ばれ、当地域の物流の中核を担い、東西の諸荷物が行き交いました。そして、栗笠湊の繁栄と共に隆盛を極めた船問屋の佐藤家は、多くの船を持ち、広大な屋敷を構えました。
栗笠の獅子舞は同じ動作を3回ずつ繰り返して舞う場面が多い。
栗笠の獅子舞のうち、格式の高い舞の総称。
1匹の獅子に2人の舞人が入って芸をするとき、頭及び前足の役をする人を「かしら(頭)」、後足の役をする人を「あとまい(後舞)」と呼ぶ。芸によってはあとまいのことを「だい(台)」と呼ぶこともある。
前後左右いずれも正面として舞をすること。
基本の舞である大廻りの中で、獅子が広々とした野原に出て種々の動作をして遊びまわる部分のこと。この部分の動作の違いによって、「ころころ」「二人返り」などの種目名が付けられる。
獅子舞、お囃子、その他の世話等、栗笠の獅子舞に関与する者のこと。