News 最新ニュース
近鉄道標の整備時期。
2014.08.07
伊勢街道沿いに整備されている、近鉄のたき道道標ですが、養老ロープウェーの開設を記念して設置されたものだというお話を聞くことができました。
ということは、昭和44年(1969)に整備されたということですかね。
まだ確認はとれていませんが、これまで設置時期が明確になっていなかったので大変参考になりました。
ちなみに、これらの近鉄道標については、なぜ養老街道を選択せずに、伊勢街道で道標を整備したのか?という疑問も残っているので、この新しい情報を手がかりに、引き続き情報収集を続けたいと思います。
竜泉寺の小さな池。
2014.04.03
養老町には、養老山地が曇るのは、竜泉寺の山頂の小さな池に住む龍が、隣町である海津市南濃町の行基寺裏山に遊びに行っているからだという言い伝えがあります。
たしかに、養老山地に沿って長く伸びる雲は、龍のイメージによく合いますよね。
ただ、この話で一つ気になるのが、竜泉寺の山頂にあり、どんな日照りにも水がなくならないという小さな池の存在。
今のところ、全く情報が得られていませんが、もし実在するなら、一度はこの目で見てみたいです。
立岩の横の洞穴。
2014.03.06
言い伝えですが、勢至の立岩の横に洞穴があり、「やまなかおろく」という大泥棒が住んでいたという話があることを知りました。
勢至の立岩については、一昨年の11月に現地確認を行っていて、その際に周辺も確認したつもりだったんですが・・
ひょっとしたら、見落としたかもしれません。
養老町沢田に伝わる話のようなので、そこでもう少し情報収集をして、次に立岩を訪れる際には、前回よりも探索範囲を広げてみようと思います。
押越の花火。
2013.04.23
江戸時代の終わりから明治の初め頃にかけて、養老町では小花火と呼ばれる花火が盛んでした。
中でも、養老町押越の花火は特に有名で、「谷越へ」や「山越へ」という名の仕掛け花火を行う技術をもっていたそうなんですが・・
その技術は門外不出で、花火を見せるときも200m以上近づくことを許さなかったため、現在ではどういうものだったか分からなくなってしまいました。
もったいない話ですよね。
この押越の花火、他にも驚くような話が残っていて、御神木である大杉で、「大瀧」という仕掛け花火に失敗して、大杉が焼けてしまったということもあったようです。
私が見た資料には、「落雷によるというのは誤りである」と記述されていたので、ちょっと焦げた程度の話ではなかったんでしょうね。
ただ、押越八幡神社に奉納されている初代大杉の額では、表皮に炭化した痕跡を見つけることはできませんでした。
かなり高い位置に仕掛けていたのかもしれません。
それにしても、高さが約30メートルもあった大杉を燃やしてしまう押越の仕掛け花火とは、いったいどんなものだったんでしょうね。
養老公園の白山神社跡。
2013.04.22
養老説教場から養老の滝へとつづく観瀑道路の途中に、白山神社の跡地が残っています。
この白山神社、現在は養老神社に合祀されているのですが、跡地の方に、孝子伝説で知られる源丞内の出生地であるだとか、源丞内が父親の病気平癒を願って建てたものだなどといった、気になる話がいくつか残っています。
そんな中でも、特に気になるのが、養老神社に合祀されるまでは養老寺がお世話をしていたという話。
養老寺の由来を記した「養老寺略縁起」でも、白山信仰は養老寺建立の資金を提供する重要な役割を果たしており、養老寺と白山信仰に深いつながりがあることは間違いないとは思うのですが・・
養老寺の近くで白山信仰といって、真っ先に思いつくのは、白山太鼓が残る鷲巣白山神社ですよね。
しかし、こちらはこちらで、境内に光明寺跡に由来する薬師堂が残されていたりします。
このあたりをもう少し上手く整理できれば、何か新しいことが分かるような気がします。
みゆき道。
2013.01.09
養老町養老の大菩提寺境内に、今は使われていない古道の一部が残っています。
地元では、この道のことを「みゆき道」と呼んでいて、ヤマトタケルや元正天皇が通過した道とも伝えられているのですが・・
今のところ、その根拠となるような情報は得られていません。
伊勢街道からも50mくらい離れていますし、南北にどのように延長していくのかもよく分からない状況です。
ただ、残存部分がほぼ南北に一直線に伸びることと、その延長線上(北)に戸関遺跡があることは気になります。
少なくとも、ひきつづき調べてみる価値は十分にありそうですよね。
この情報は「タギゾウくんの養老ナビ」にも掲載してあります。
興味のある方は、ぜひ一度現地を訪れてみてください。
直江のお地蔵様。
2012.05.31
養老町直江の旧牧田川堤防には、不思議な言い伝えが残るお地蔵さまがいらっしゃいます。
その話は、以下のようなものです。
むかし、直江に、たいそう忠義者の番頭さんがいました。
ある日、番頭さんが近くの蛇池で草を刈っていると、間違って草と一緒に白蛇の頭を切り落としてしまいました。
あわてた番頭さんは手を合わせ、蛇に何度も謝りました。しかし、急にのどが渇き、水が飲みたくてたまらなくなったので、蛇池のほとりで水を飲んだところ、今度はおなかが痛くてたまらなくなってしまいます。
番頭さんは、意識が薄れていく中で、水を飲もうとした蛇を殺してしまったことに気づき、蛇を殺してしまったことを悔やみましたが、そのまま亡くなってしまいました。
そして、このことを知り、番頭さんを哀れんだ主人は、この場所にお地蔵さまを建てたそうです。
とても興味深い話ですよね。
そのため、もう少し詳しく知りたいと思い、現地でお話しを聞いてみると、このお地蔵さまの場所は江戸時代から変わっておらず、さらにこの地域では「首から上の部分を健康に導くお地蔵さま」と伝えられていることも分かりました。
また、蛇池と呼ばれた池は、このお地蔵さまのすぐ西側にあったそうです。
最後にお地蔵さまを調べてみると、その足下の石に「寛政十一未年 法名釈暁圓 五月十九日」という銘を見つけることもできました。
この方が、昔話の番頭さんなのかもしれませんね。
この情報は、タギゾウくんの養老ナビにも登録しました。
興味のある方は、ぜひ現地を訪ねてみてください。
ギリギリ跡
2012.01.19
多芸七坊の一つである小倉山光明寺には、元亀年間(1570~1573)に織田信長によって焼かれたという言い伝えとともに、そのとき本尊である薬師如来を避難させるときに起きた不思議な出来事が言い伝えられています。
それは、薬師如来を乗せた荷車が、養老町の小倉と鷲巣の境にある交差点にさしかかった時、左の小倉へ行こうとするとギリギリと鳴って進まず、右の鷲巣に行こうとすると、軽く動いたという言い伝えです。
「これは、仏様が鷲巣に行きたいと仰っているのだ」として、薬師如来は鷲巣に運ばれることになりました。
ただ、現在は鷲巣白山神社に薬師堂が残るのみで、仏像は焼失してしまっています。
この話で気になるのが、光明寺跡に比定されている薬師山遺跡のほとんどが、養老町鷲巣の飛地であること。
実際に、本尊を避難させる事態になったならば、迷わず鷲巣へ運んだのではないかとも思います。ただ、交差点の場所は、薬師山遺跡と養老町鷲巣の位置関係と整合的で、この話には事実も含まれているんじゃないかと思えるところがあります。
現在、この交差点は「ギリギリ跡」や「ギリギリ峠」と呼ばれており、地元で小学生などを対象にした歴史探訪が行われると、地域の旧跡として紹介されています。位置など興味のある方は、ぜひ「タギゾウくんの養老ナビ」で検索してみて下さい。
養老美泉論争。
2011.12.08
養老町の名前の由来にもなっている、元正天皇が訪れた養老の美泉ですが、実はその候補は「養老の滝」と「菊水泉」の2つがあり、今もはっきりとした結論が出ていません。
そして、このことについては、江戸時代にも高名な学者同士で論争になり、大人げない意地の張り合いに発展したことがありました。
それが、国学者である田中大秀(たなかおおひで)と、儒学者である秦鼎(はたかなえ)の間で、交わされた論争です。
田中大秀は養老の滝派、秦鼎は菊水泉派でした。
田中大秀は、「養老美泉録」(1814)や、「養老美泉辯註(ようろうびせんべんちゅう)」(1815)を著し、さらに滝のそばに「養老美泉辯碑(ようろうびせんべんひ)」(写真上)という石碑を建て、持論の正当性をアピールしました。
これに対し、秦鼎は、文化13年(1816)菊水泉に「菊水銘碑」(写真下)を建てています。さらに、養老の弟子へ田中大秀を誹謗する手紙も送るといったこともありました。
対立は、2人が亡くなったあとも続き、秦鼎の弟子達が「養老美泉辯碑」を壊したり、「養老美泉辯註」の版木の一部を削ってしまう事件が起きました。
現在の「養老美泉辯碑」は明治31年(1898)に再建されたものです。
この2つの候補は、いずれも養老公園内にあります。訪れた際には、どちらが妥当か、ぜひ皆さんも考えてみて下さい
有尾のなたぼくさん
2011.12.02
養老町有尾には、円空作の薬師如来像があります。
この円空仏は、江戸時代中期に川の氾濫で有尾に流れ着いたと伝えられていて、色々な御利益の中の一つに、この薬師如来像を抱えて川に入ると、泳ぎが上手くなるというものもあります。
イメージしづらいですが、円空仏を浮き輪代わりにしたということですかね・・
この円空仏は、地元では「なたぼくさん」と呼ばれ、とても大切にされています。
下笠薬師。
2011.11.25
養老町下笠字湯口に、下笠薬師堂と呼ばれるお堂があり、中には、医薬の仏様である薬師如来が祀られています。
そして、この仏様には、昔、下笠村を襲った洪水で流されてしまったという話が残っています。
内容は、流された仏様を心配した村人たちが、行方を捜し、知多にあった「浜薬師」が、海から浮かび上がって来たことや、以前は下笠薬師如来と呼ばれていたことを知って、返してもらうようにお願いし、無事に仏様が戻ってくるというもの。
しかし、どうやら、戻ってきた仏様は流される前よりも、一回り小さかったようです・・・
どこまでを信じるか、というところですかね。
ただ、養老町には、この他にも洪水で流された仏様の話が残っていて、こういったことは珍しくなかったのかもしれません。
この下笠の薬師如来は、無病息災の仏様として、現在も地元の人達に大切にされています。
ハツシモの収穫。
2011.10.24
10月も下旬を迎え、養老町でもハツシモの収穫が終わりつつあります。
ただ、少し収穫の早い、「あさひの夢」の収穫量があまりよくなかったそうなので、ハツシモも心配されているみたいですね。
稲の花のつく9月に、台風に見舞われたのが、よくなかったようです・・
わが家も10月初旬に無事ハツシモを収穫し、乾燥と籾すりが終わったとの連絡をいただいたので、作業場へ収穫量を確認しにいったのですが・・
2反で11俵と、例年よりやや少な目でした。
作業場では、米袋を運ぶロボットを、はじめて見ることができました。
来年は、このロボットに今年よりもたくさんお米を運ばせるようにしたいですね。
第3の滝。
2011.08.26
先日、養老町直江の春日神社に伺ったとき、直江区が所有する小谷山(おたにやま)に、「直江の滝」と呼ばれる立派な滝があることを知りました。
上の写真の位置にあるそうです。
「養老の滝」が有名な養老町で、「まぐさの滝」のことは知っていても、「直江の滝」のことを知っている人は少ないんじゃないでしょうか。
ということで、来月の中旬に、現地確認を行うことにしました。
撮影した写真は、当ホームページでも公開する予定ですので、ぜひ楽しみにお待ちください。
多岐神社の伝説。
2011.07.21
養老町三神町にある多岐神社(たぎじんじゃ)は、養老町に3つある延喜式神名帳に記載された式内社の1つです。
この神社には次のような伝説が残っています。
大正2年(1913)、1ヶ月以上も雨が降らない日照りが続きました。井戸水は干上がり、田んぼや畑の作物は枯れてしまい、このままでは食べるものが無くなってしまう、と村人は困っていました。
そんなある日、1人の村人が「牧田川の砂を持ってきて、それに種籾を撒いてはどうだろう」と提案しました。
村人達が藁をもつかむ思いで、この案を実行すると…
多岐神社の境内に撒いた牧田川の砂から、早稲・中稲・晩稲すべての芽が出ました。
村人達は、これを多岐神社の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の御利益であると感謝し、多くの参拝者が神社を訪れました。
現在、その場所には記念碑が建てられ、この奇跡を語り伝えています。
養老ランドの桜。
2011.06.07
上の写真は、養老ランドの南側に並ぶ桜です。
一見しただけでは、なんの変哲もない桜に見えますが・・
よく見ると、桜が金網を突き破り、その一部を呑み込んで生長していることが分かります。
これ以外にも、同じような桜が数本あり、改めて植物の力を感じることができる場面でした。子どものとき、アスファルトを突き破って咲いている花を見て感動したことを思い出しますね。
子どもと養老ランドへ遊びに行く予定のある方は、ぜひ植物の強さを説明してあげて下さい。
小畑の千人塚
2011.03.17
養老町飯田に架かる小畑橋から堤防に沿って、東に500mほど進んだ辺りに、千人塚と呼ばれているところがあります。
今は綺麗に整備されていますが、昔は鬱蒼とした場所だったそうです。また、人魂を目撃したり、枝を折ると祟りに遭うといった噂もあったため、あまり人も近寄らなかったみたいです。
地元には、ここに合戦の落人が埋葬されているという言い伝えも残っており、後に地蔵を祀って供養するようになりました。
更に、千人塚に住む守神である白蛇を祀る社も造られ、それ以降は、不思議な現象を耳にすることも無くなったそうです。
現在は、春と秋に慰霊祭が行われています。
美波の地蔵さま
2011.01.21
養老町大巻には美波(みなみ)と呼ばれる地域があります。ここに立っているお地蔵さまには、次のようなお話が伝えられています。
むかしむかし、美波の村は、毎年のように日照りや洪水に見舞われ、不作が続いていました。さらに、多くの人が疫病にかかってしまい、村人たちは苦しんでいました。
そこで、お地蔵さまをまつって村を救ってもらうよう、たくさんのお供えを用意し、提灯を飾って祈りました。特に8月24日の夜には村中総出で必死にお祈りを続けました。
すると願いが通じ、その年は豊作になりました。
お地蔵様のおかげだと喜んだ村人たちは、それからというもの「じぞう様、じぞう様」と親しみを込めて敬いました。
今でも、毎年8月に「地蔵まつり」を行い、感謝を続けています。
久々美雄彦神社(くくみおひこじんじゃ)の伝説
2011.01.14
養老町沢田の郷社である久々美雄彦神社は、延喜式神名帳に記載されている格式の高い神社です。
沢田の宮谷上流に鎮座しているため、参拝をするには山道を登らなくてはなりません。この神社には次のような伝説が残っています。
むかし、乗馬が得意なお殿様がいました。ところが、沢田村に入るとなぜか、落馬することが度々あり、困っていました。
ある晩、久々美雄彦の神様が夢枕に立ち、
「私を高いところに祀りなさい。そうすれば、もう落馬することはありません。」
と、仰いました。
お殿様はさっそく、高い位置に社を造り、久々美雄彦の神様をお祀りしました。
それ以来、落馬することはなくなったそうです。
疱瘡の神様
2011.01.07
医療が発達していなかった昔は、病気を疫病神の仕業であると考えました。そのため、親は子どもの無病息災を願うため、様々なおまじないをしていました。
養老町では天然痘除けのおまじないとして、「疱瘡送り(ほうそうおくり)」をしていました。「さんだわら」と呼ばれる藁で作ったお盆の上に赤飯のおにぎりと塩をのせ、村外れの道端にお供えをします。そうすることで、疱瘡の神様を送り出し、天然痘にかからないことを祈りました。
また、種痘をする時代になると、「接種がうまくいきますように…」という願いも込められるようになりました。
この他にも、流行病が蔓延することを防ぐため、家や村境にしめ縄を張ることもあったそうです。
健康を願う気持は今も昔も変わらないのですね。
浄蓮寺の梵鐘(ぼんしょう)
2010.12.21
養老町三神町にある浄蓮寺には、大変良い音が鳴るといわれる梵鐘があります。
「どんとなるのは浄蓮寺の鐘か 1里きこえて2里ひびく」
という里謡も残っているほどです。
この梵鐘は戦時中の鉄の供出をまぬがれていますが、それはこのためなのでしょうか…。
僕は大晦日に宿直なので、役場で年越しです。浄蓮寺の除夜の鐘が僕のところまで届いてくれることを期待しています。