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役場ロビー展示を開催しています。
2020.12.21
養老町教育委員会では、毎年恒例となってきた役場ロビー展示を、先週末より開催しています。
今年は、「千人塚1号古墳発掘調査速報展」と題し、今夏に調査を行った千人塚1号古墳出土の埴輪(はにわ)を、発掘調査の成果をまとめたパネルとあわせて紹介しています。
埴輪と聞くと、人の形をしたものを想像する方がいるかもしれませんが、最も多く出土するのは円筒埴輪(えんとうはにわ)と呼ばれる筒状・土管状のもので、千人塚1号古墳でもこのタイプの埴輪が出土しました。
展示期間は来年の1月29日(金)までですが、年末年始のお休みの間(12月29日~1月3日)はセキュリティ面を考慮して埴輪を片付けてしまうので、ご注意くださいね。
千人塚1号古墳範囲確認調査現地説明会を行います。
2020.09.10
養老町教育委員会では、今年の7月末頃から養老公園近くにある「千人塚1号古墳」の範囲確認調査を行っています。
調査も終盤に差し掛かり、千人塚1号古墳は5世紀末~6世紀初頭頃に造られた円墳だということが分かってきました。
時代が特定できたのは、円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土したおかげですが、実はこれが養老町において初の埴輪出土事例でした。
また、埴輪の他に、葺石(ふきいし)や周溝(しゅうこう)なども確認され、周溝の底までの長さを測ると全長35mにも達し、養老町最大の円墳だと判明しました。5世紀末~6世紀初頭頃という時期だけを見れば、西濃地域でも最大級の円墳と言えます。
千人塚1号古墳の周辺は、養老郡志などによれば「多芸野」に比定されており、ヤマトタケル伝承が色濃く残る場所です。
そんな場所に、この規模の円墳が見つかったことから千人塚1号古墳の被葬者の力の大きさが想像されます。
以上のように、大きな成果がでた千人塚1号古墳範囲確認調査の現地説明会を、以下の内容で実施いたします。
日時:令和2年9月13日(日)午前10時~11時30分頃まで
場所:千人塚1号古墳範囲確認調査現場(養老町養老1228-2)
※現地に駐車場がありませんので、「ひょうたん会館」前駐車場(養老町鷲巣1646-9)をご利用下さい。
※詳しくは、地図をご覧下さい。
予約不要、参加無料です。小雨でも何とか決行し、皆様にぜひ生の現場を見ていただきたいと考えているので、お誘い合わせの上、ご参加ください。
もちろん、体調と相談した上、マスク等の新型コロナ対策を徹底してのご参加をお願いいたします。
勢至の滝。
2017.09.15
養老町教育委員会では、養老町勢至の山中に残る中世寺院跡の分布測量調査を行っています。
現在勢至の山中にある日吉神社の裏には光堂寺跡の石柱が立っていますが、養老町史などから中世には勢至寺と呼ばれた寺院があったことが分かっています。
勢至寺には、過去の分布調査から、領内に二カ所以上の墓域がある可能性を指摘していました。
実際に調査をはじめてみると、勢至北谷の北側と南側に石塔物が点在する範囲が確認でき、そのうち、北谷南側の石塔物分布範囲は、当初考えているよりも山中深くまで分布することが分かってきました。
先日、石塔物分布範囲のさらに奥まで踏査してみたところ、山の尾根上に十数段もの平場が展開する場所を発見しました。
そこは、柏尾廃寺の奥にある柏尾城に似た雰囲気でしたが、山城にある堀切などの遺構は今のところ確認できませんでした。その奥にある岩場の上からは、濃尾平野が一望でき、勢至や柏尾をはっきりと見下ろすことができました。
この尾根から勢至北谷に向かって下りてみると、突如目の前に滝が出現しました。
柏尾の秣の滝をはじめ、多芸七坊中世寺院跡の構成要素には滝や泉などの水場があると考えていましたが、勢至ではこれまで未確認でした。
今回確認できた滝は、少なくとも二段落ちになっており、滝の水がしたたる岩肌にはベニマダラモが繁茂していました。
規模はそれほど大きくはないのですが、山深くで出会ったこの驚くべき光景に、胸が高鳴り、山を歩いた疲れも吹き飛んでしまいました。
上の写真が滝、下の写真が山城(?)奥の岩場からの眺望です。
場所をしっかりと覚えたので、これからさらに詳しく調べていきたいと思います。
竜泉寺の阿弥陀堂跡。
2014.05.16
先日、竜泉寺廃寺跡内で、竜泉寺古墳より東側に広がる平坦部付近に「阿弥陀堂跡」という名称が付いていたということを知りました。
また、過去には、ここで2本の独鈷杵が発見されていたみたいです。
養老町教育委員会の調査でも、その辺りに中世の遺物がたくさん分布していることは確認できていましたが、独鈷杵が発見されていたという情報は全く得られていなかったので、とても驚きました。
この情報を踏まえ、近いうちにもう一度、現地周辺をよく確認してみようと思います。
養老説教場の土器片。
2014.05.08
先日、大正14年(1925)に行われた聞き取り調査資料の中に、「説教場建設ノ際泉水ヲ穿テル時土中ヨリ古土器ノ破片現ハレタル」という一文を見つけました。
出土した資料の特徴は記されていなかったため、詳しいことは分かりませんが、おそらく養老説教場付近に遺跡があるんでしょうね。
これまで全く把握できていなかった情報なので、近々現地を確認してみたいと思います。
土製の双孔円盤。
2014.03.17
養老町宇田の日吉遺跡からは、双孔円盤(そうこうえんばん)と呼ばれる遺物が出土しています。
これは、名前のとおり、円盤に二つの穴をあけたものなんですが・・
その用途は明らかになっていません。
どちらかといえば、祭祀用具など、実用的ではない用途が想像されているみたいですね。
そんな双孔円盤ですが、一般的には石製のものが多い中で、日吉遺跡のものは土製。
それも、元々は土器として利用されていたものの再利用です。
このことに、どのような意味があるのか・・
引き続き、地道に調べていきたいと思います。
日吉遺跡のガラス玉。
2014.03.10
日吉遺跡からは、直径3mmほどの糸通しの穴があいたガラス玉が発見されています。
見つかった場所は、弥生時代の終わり頃の竪穴建物の床面。
とても小さなものなので、危うく見過ごすところでした。
そんなガラス玉ですが、本来の用途は複数に糸を通して使用するアクセサリー。
そのため、周辺も丁寧に探してみたのですが・・
結局、見つかったのは、この1点のみでした。
弥生時代のガラス玉は大変貴重なものなので、1つだけでも何か意味はあったかもしれませんが、見つけたときの第一印象は「失くしちゃったんだろうな」でした。
中世石塔の未製品。
2014.02.26
養老山地やその山麓付近には、中世の石塔がたくさん散乱しています。
これらは、養老町の中世社会を考える上で、貴重な手がかりになるものなんですが・・
土地所有者に発見されると、神社やお寺に持ち込まれることが多いですよね。
そのため、山麓部にはいくつか石塔の集積地点ができあがっています。
上の写真は、そんな集積地点の一つで、完成品と未完成品を横並びで撮影したもの。
最近、養老町に分布する中世の石塔には、未完成のものも多く含まれていることが分かってきていて、中世の養老町で石塔作りをしていた可能性が指摘されるようになっています。
ただ、その素材の多くを占める砂岩が養老町域の養老山地では採取できないことや、石材が産出地でどの程度まで加工されるのかが分からないといった課題が残されているため、まだ確かなことは分かっていません。
こうした中世石塔の研究に携わる方はそれほど多くなく、地道に研究が進められるのを待たなければなりませんが、また新しい発見があれば、当ホームページでもご紹介していきたいと思います。
別庄古墳群の副葬品。
2014.01.07
先日、「郡内古墳発掘物」というメモがついた写真を見る機会に恵まれました。
古墳名は明記されていませんでしたが、添えられていた個人名から、養老町史通史編で、別庄1号墳の東隣にあった円墳から、宅地造成の際に出土したと紹介されている副葬品を撮影したものだと思います。
ちなみに、別庄1号墳とは、現在、象鼻山70号墳とされている古墳のこと。
その東隣の古墳から出土したとされる副葬品の情報は、これまでずっと探し続けていたものだったので、初めて見たときは、とても驚きました。
ただ、町史で直剣(両刃)とされていた副葬品は、ひょっとしたら鉄刀(片刃)なのかもしれませんね。
また、写真の観察だけで、あまり詳しいことは分かりませんが、2振のうち1振には鍔があるようにも見えます。
郡史や町史の記述によると、発掘された別庄古墳群の副葬品には、このほかにも須恵器や朱壺などがあったようなので、引き続き情報収集を続け、象鼻山古墳群の性格を解き明かすのに役立てたいと思います。
昭和40年代の竜泉寺古墳。
2013.09.18
養老町竜泉寺には、石材目的で破壊される以前は、横穴式石室が開口していたと伝えられている古墳があります。
上の写真は、そんな竜泉寺古墳の墳頂部を東から撮影したもの。
散乱している石が、石室石材です。
昭和49年(1974)に、既に養老町文化財保護協会が、竜泉寺古墳が破壊されている状態であることを報告しているので、おそらくはその少し前に行った調査時に撮影されたものでしょうね。
現在も、ほとんどこのままの状態で、付近からは、最近の竜泉寺廃寺跡の調査によって、ようやく少し古墳時代の須恵器を発見することができるようになっています。
とはいえ、相変わらず、ほとんど情報のない竜泉寺古墳。
どこかに、破壊したときの記録などが、残っていないですかね・・
昨日の須恵器。
2013.05.10
昨日紹介した、須恵器のハソウですが、今日早速、養老町泉町で見つかったように思うとの追加情報をいただきました。
過去の養老町教育委員会の調査では、養老町泉町で古代の遺跡を確認できていないので、ひょっとしたら新しい発見につながるかもしれませんね。
あまりはっきりとは思い出せていないようでしたが、とりあえず近いうちに現地を確認してこようと思います。
須恵器のハソウ。
2013.05.09
昨日、たまたま別件で伺ったお宅で、昔の水道工事の際に出土した須恵器(すえき)を見せてもらうことができました。
ちなみに、須恵器というのは、主に古墳時代から平安時代にかけて、登窯で焼成された青色の焼き物のことです。
現在のように重機を使わず、まだ手堀りで水道工事を行っていたころに出土したそうで、養老町のものであることは間違いなさそうなんですが・・
「養老だったか・・多芸だったか・・」という感じで、残念ながら、詳しい出土位置までは覚えておられませんでした。
小さな壺に、注ぎ口がついた「ハソウ」と呼ばれている器種で、平底に高台をもつことから、だいたい7世紀の終わりから8世紀くらいのものだと思いますが、どこで見つかったかが重要ですよね。
「覚えている人がいるかもしれないから聞いてみる。」とおっしゃっていたので、朗報を待ちたいと思います。
勢至寺跡の瓦片。
2012.12.17
先日、養老町勢至で、瓦の破片を見つけました。
小さなものですが、たぶん中世瓦で、勢至寺に関わるものだと思います。
今のところ1片しか見つかっていませんが、瓦は一枚だけで役に立つものではないので、今後その周りでも見つかる可能性は十分ありますよね。
なんとか発見数を伸ばし、北に隣接する竜泉寺や、南に隣接する柏尾寺といった、他の中世寺院と比較できるだけの情報がほしいところです。
大正10年の桜井古墳発見記事。
2012.11.13
昨日、大正10年(1921)6月15日(水)に発行された勢濃日報を見る機会に恵まれました。
これは、大正10年2月25日に、石材目当てで破壊された桜井古墳(現、坂尻古墳)についての記事を掲載した新聞で、桜井古墳が発見された当時の詳細を知ることのできる貴重な資料とされてきたものです。
なので、はじめは、この幸運をとても喜んだのですが・・
内容を確認してみると、桜井古墳の発見時の詳細は、同年6月13日の第156号で記事にされていて、私が見た第158号には、桜井古墳の記事に対し、桑名市の神職の方が寄せた原稿が掲載されていることがわかりました。
そのため、お目当ての内容は、どこにも・・
だれか、大正10年6月13日に発行された勢濃日報を保管している人、いませんでしょうか。
白い粘土。
2012.11.06
昨日、日吉遺跡で立会調査をしていると、弥生時代の終わり頃から古墳時代初め頃の土器と一緒に、白い粘土が出土しました。
養老町の地表下では見たことのない粘土なので、どこかで採取されたものを、乾燥しないように土の中に保管しておいたんでしょうね。
ただ、どのような用途に使うつもりだったのかは、いまいちよく分かりません。
葬送でしょうか・・
また、この白い粘土が、どこで採取されたものなのかも気になります。
うまく産地が分かれば、当時の養老町の人たちのお付き合いの実態が、少し解明できるかもしれませんね。
県指定文化財「古瀬戸瓶子」の出土状況。
2012.08.02
養老町には「古瀬戸灰釉瓶子(こせとかいゆうへいし)」という、養老山地で偶然発見された岐阜県指定文化財があり、先日、養老町郷土資料館の収蔵庫で、この古瀬戸瓶子の出土状況を撮影した写真を見つけることができました。
この古瀬戸瓶子の発見経緯は、「昭和48年(1973)3月13日に養老町竜泉寺の了福寺に出入りしていた方が養老山頂へ登る途中、伐採され朽ちた杉の根に抱え込まれた古瀬戸瓶子を発見した」というもので、発見時には中に人骨が入っており、これを他器に移して懇ろに供養したことが記録に残っています。
ただ、これまで、その写真は見当たらなかったので、見つけたときは驚きました。
元の場所に戻しての撮影だとは思いますが、こんな出土状況だったんでしょうね。
ちなみに、出土した場所は、記録では行平谷の山道の側となっていますが、たぶん勢至北谷の間違いだと思います。
そして、この古瀬戸の所属時期がだいたい13世紀後半から14世紀初め頃で、周囲に石塔物が確認できていることから、おそらく中世山岳寺院である勢至寺の墓域の位置を示すものでしょうね。
ただ、この勢至寺の範囲には、もう一つ墓域らしい場所が確認できています・・
なぜ一つのお寺に複数のお墓があるのか、もう少し地道に情報収集していきたいと思います。
竜泉寺古墳の採集遺物。
2012.06.25
現在、養老町教育委員会では竜泉寺廃寺跡の測量調査を進めていて、その調査の中で、竜泉寺古墳の周辺から、古墳時代の須恵器(すえき)を採集することができました。
いずれも小片で、数も少なかったのですが、幸運なことに、その中にある程度所属時期を推定できるものが混じっていました。
上の画像がその須恵器になります。
「杯(つき)」と呼ばれるものの口縁部分で、形や口径などの特徴から、たぶん6世紀後半から7世紀初頭くらいのものだと思います。
ただ、古墳の近くで拾えたということだけなので、必ずしもこの須恵器が竜泉寺古墳の所属時期を示しているとは言い切れません。
でも、これまで全く情報がなかったことを考えると、貴重な発見ですよね。
一昔前までは横穴式石室が残っていたという情報とも矛盾せず、竜泉寺古墳の所属時期が古墳時代後期である可能性が少し高まってきました。
竜泉寺古墳。
2012.05.16
養老町教育委員会では、今年度もひきつづき竜泉寺廃寺跡の測量調査を続けています。
上の写真は、その様子を撮影したもので、竜泉寺廃寺跡の中にある竜泉寺古墳の平面図を作成しているところです。
この竜泉寺古墳、一昔前までは横穴式石室が残っていたらしいのですが・・
今は、石材採取で石室が破壊されていて、古墳が造られた時期や形など、ほとんど何も分かっていないのが現状です。
そのため、記録作成と併行して、遺物の採集などにも取り組んでいるのですが、いまのところ、あまり有効な情報は得られていません。
まだ、始めたばかりなので、引き続き丁寧に調べていこうと思います。
調査の帰り道、養老町でよくカラスヘビと呼ばれる、黒いヤマカガシに出会うことができましたが、すぐに逃げられてしまい、良い写真は撮れませんでした。
毒蛇ということで、ちょっと気後れしたのがよくなかったです・・
上方古墳(うわがたこふん)。
2012.04.13
養老町上方には、上方古墳と呼ばれる、いまだに位置が特定できていない古墳があります。
唯一の手掛かりは、昭和35年(1960)に刊行された「白鳥神社史」にある、ぬくとばの畑の中から3点の須恵器を掘り出したという記述。
出版に携わった方に、お話しを聞いたりもしたのですが、結局ぬくとばが何なのかさえ、よく分かりませんでした。
ちなみに、上の写真が、出土した3点の須恵器になります。
粗い画像ですが、6世紀後半から7世紀前半くらいに属する資料ですよね。
白鳥神社史には、採集地点周辺において今後も破片が見つかるだろうと書かれているので、この言葉を信じて、引き続き発見に努めていきたいと思います。
桜井古墳(坂尻古墳)の石室石材。
2012.04.12
養老町桜井には、大正10年2月に、破壊されてしまった古墳があります。
その古墳の名前は、坂尻(さかじり)古墳。
破壊された当時は、桜井(さくらい)古墳と呼ばれていました。
横穴式石室をもつ古墳で、石室からは普通の人より長大な5体の人骨のほか、5本の剣と、多数の須恵器(すえき)と呼ばれる器が出土したのですが・・
現在、出土品の多くは、その所在がはっきりしていません。
ただ、養老町に残った2点の須恵器や、東京国立博物館に所蔵されている関係資料から、おおよそ6世紀後半を中心とした遺跡と考えられています。
また、平成22年度に行った聞き取り調査では、この坂尻古墳の石室石材が、桜井白鳥神社の石垣に使用されているというお話を聞くこともできました。
ちなみに、お話では、10数個の石材を、石垣に使用したとのことだったのですが・・
現地確認では、どの石がそうなのか、いまいちよく分かりませんでした。
唯一、参道階段の左手の石は、可能性が高いですかね。
いずれにせよ、もう少し、いろいろと調べておく必要がありそうな古墳です。