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土屋輝雄の「雀」と「養老の滝」。
2020.05.01
先日、東部中学校の先生から、「土屋輝雄さんの絵が学校にある」との連絡がありました。
土屋輝雄さんは、養老町高田出身の日本画家で、町内の他の学校にもいくつか作品が残されていることは知っていたのですが・・・東部中学校に輝雄さんの絵があることは把握していなかったので驚きました。
やや半信半疑で東部中学校へ確認に行くと、羽ばたく雀をモチーフにしたものと、おそらく養老の滝をモチーフにした大きく立派な絵画が2枚あり、絵の端にはしっかりと輝雄さんの印が入っていました。
どちらも紙ではなく、絹に絵を描いた「絹本(絹絵)」と呼ばれるもので、2つの絵を並べると、まるで雀たちが養老の滝に向かって羽ばたいていくような想像を掻き立てられる作品でした。
これらの絵が東部中学校にある経緯について詳細は分かりませんでしたが、裏に寄贈者の名前が書かれていたので、これを頼りに調べてみたいと思います。
残念ながら、滝の絵には破れがありましたが、雀の絵は良い状態で保存されていたので、今後は東部中学校の校長室に飾っていただけるそうです。
新型コロナウイルス感染の拡大が落ち着いた後、東部中学校に行く機会があれば、ぜひご覧になってください。
もちろん、事前に閲覧の許可をとってくださいね。
「養老町の輩出しためざましい先人の活躍のあとを尋ねて」のPDFデータの公開。
2019.04.06
先日、お知らせした「養老町の輩出しためざましい先人の活躍のあとを尋ねて」のPDFデータを電子書庫に公開しました。
冊子には128名もの郷土の先人が掲載されていますが、この原稿を執筆してくださったのは、養老町岩道の山口一易さんです。
山口さんはこれまで、郷土の歴史を深く調査され、郷土の先人についてもその功績の周知に努めてこられた方。
この冊子のほかにも、これまでに、養老公園にある石碑に刻まれた詩歌を紹介する冊子や、養老町が生んだ国学者田中道麿さんの歌集の解釈を示した冊子など、数多くの冊子作成にご尽力くださいました。
長年にわたる地道な調査活動を続けてこられた山口さんのご協力があってまとめることが出来た今回の冊子。
たくさんの方に読んでいただけたらうれしいです。
なお、本を手にとって読んでみたいという方には、冊子の一般販売も引き続き行っております。
こちらもぜひご利用ください。
名古屋相撲の力士「三ッ湊政七」。
2019.03.25
先日、名古屋相撲の力士だった三ッ湊政七の写真を見る機会がありました。
写真に添えられたメモによると、出身は養老町の烏江と書かれていたので、地元にご存じの方がいらっしゃるかもしれないと思ったのですが、残念ながら今はあまり知られていないようでした。
気になってちょっと調べてみたところ、本名は「浅井政七」というそうです。
政七は幼いときから体が大きく力技に優れていたので、10歳を過ぎる頃から家計を助けるために烏江湊の船着場で、商人だった父親の手伝いをしており、その時に偶然、巡業中の大阪相撲三保ヶ関親方の目にとまり、相撲界へ足を踏み入れたみたいです。
はじめは大阪相撲で活躍し、二十歳を過ぎた頃に名古屋相撲に移ったみたいですね。
三ッ湊政七の人柄やその活躍を示すような詳しい資料はまだ確認できていませんが、名古屋の覚王山墓地に記念碑があるそうなので、近くまで行ったときに確認してみたいと思います。
女性の先人展開催中です。
2019.02.21
養老町役場ロビーにて、ミニ展示「うるわしき ようろう女性の先人展」を行っています。
展示では、先日一般販売のお知らせをした冊子『養老町の輩出しためざましい先人の活躍のあとを尋ねて』の中から、4名の女性をピックアップしてご紹介しています。
その4名は、
女医として名高く、郷土に産婦人科を開業した村上 巌(いわお)さん、
社会活動に尽くし、郷土の発展に貢献した上田やすさん、
最新技術を身につけ、写真技師として活躍した土屋ちかさん、
眼科医師として、眼科保険医療に尽力した半田登喜代さん。
それぞれの功績や人柄を紹介するパネル、関連資料の展示に加え、4名のすぐれた知恵と実行力に富んだ女傑エピソードを、クイズ形式で紹介してみました。
展示期間は3月6日(水)まで。
役場にお立ち寄りの際は、ぜひご覧ください。
「養老町の輩出しためざましい先人の活躍のあとを尋ねて」一般販売。
2019.02.15
今年度作成した冊子「養老町の輩出しためざましい先人の活躍のあとを尋ねて」を、一般販売しています。
ここに掲載されている先人は、江戸時代以降に養老町で活躍した先人128名です。
養老町史が発行された昭和53年以降に活躍した人物についても可能な限り掲載しました。
ページ数は90で、手に取りやすいものになっておりますので、ぜひご購読ください。
販売の詳細は以下の通りです。
・販売価格:1000円(税込)
・販売場所:養老町役場3階 養老町教育委員会 生涯学習課(0584-32-5086)
・受付時間:平日8:30~17:15
なお、この冊子は将来電子書庫でも公開する予定があります。
山口俊郎先生の37回忌法要。
2017.11.24
明日11月25日は、養老町出身の音楽家、山口俊郎先生36回目の命日です。
先日11月22日には、山口俊郎先生顕彰会により37回忌法要が執り行われました。
山口俊郎先生は、養老町高田常盤町に生まれ、昭和56年に80歳で他界されるまで1000曲以上の作品を手がけた人物。
キングレコード専属の音楽家となり、多くの歌手の個性を発掘し輝かせた作曲家でした。
そんな山口俊郎先生のお墓には、墓石の隣に先生の言葉が刻まれた石碑が建っています。
その言葉とは「うたハ世の人にあり」。
この言葉に纏わるエピソードは見つけられなかったのですが、今なお多くの方に愛される先生の人柄に少し触れられた気がしました。
土屋輝雄の虎の絵。
2016.09.13
先日、土屋輝雄さんの虎の絵を拝見する機会に恵まれました。
土屋輝雄さんは、養老町高田出身の日本画家です。
虎の絵については、戦争に行けなかった土屋輝雄さんが、戦地に行く人々にお守りとして描いて渡したものと聞いていましたが、
実物を見るのは今回が初めてでした。とても丁寧に描かれており、真ん丸の目が印象的です。
今回絵を見せていただいた方のお宅には戦争に行った人はおらず、祖父と輝雄さんが友人だったため譲り受けたのではないかというお話だったので、
虎の絵=戦争に関係するも のと考えるのは早計かもしれません。
今後も調査を続けたいと思います。
絵を見せていただいた方のお母さんが、外出するときは毎日、「土屋さん行ってきます(今日もお守り下さい)。」と手を合わせているそうです。
撮影のために一日借りてしまったので、とても申し訳なかったです。
鬼面山谷五郎の版画。
2016.05.27
先日、養老町飯ノ木で、鬼面山谷五郎の版画を見せて頂くことができました。
鬼面山谷五郎は養老町出身で、明治のはじめに活躍した岐阜県唯一の横綱として有名ですが、養老町に残されている資料はあまり多くありません。
鬼面山谷五郎の母親が、所有者のご先祖にあたるそうです。
しっかりと記録をとらせて頂いたので、今後町のホームページなどで活用していきたいと思います。
「父、冨長蝶如を偲ぶ」
2015.09.01
今日、日吉公民館で、養老吟詠会の秋季研修会として、冨長覚梁先生の講演会が開催されました。
演題は「父、冨長蝶如を偲ぶ」です。
ちなみに、「蝶如(ちょうにょ)」とは称号で、本名は冨長覚夢(とみながかくむ)。
養老町室原出身の漢学者で、18歳で服部担風先生の門に入り、大正の終わりから、たくさんの後進を育てました。
講演では、息子である覚梁先生の話ということもあり、直接ご本人にお会いしたことのない私でも、蝶如先生を身近に感じることができました。
中でも、新たな発見だったのが、蝶如の号が、荘子の胡蝶の夢に由来していたことと、蝶如先生の座右の銘が、「遭いがたくして遭うを得たり。聴きがたくして聴くを得たり。」だったこと。
いろいろな意味があるんでしょうが、改めて、蝶如先生にとって服部担風先生との出会いが人生を大きく変えるものであったことを知ることができました。
土屋写真館の広告。
2014.03.12
先日、土屋ちかさんが経営していた写真館の広告を見る機会に恵まれました。
ちなみに、土屋ちかさんとは、養老町高田出身の日本画家である土屋輝雄さんのおばにあたる方で、土屋輝雄さんの母代わりでもあった人物。
大正から昭和の初め頃の、まだ写真が珍しい時期に、写真屋の女主人を務めたことからも分かるように、たいへんな女傑であったみたいですね。
また、ハイカラで、馬に乗っていたという話も残っています。
そんな武勇伝の多いちかさんですが、私もこの広告に数百年以上の耐久性があるというプラチナプリントが含まれているのをみて、改めて、土屋ちかさんが評判どおりの人物であっただろうと思えるようになりました。
吹原家が寄進した鳥居。
2014.03.03
濃州三湊の一つである烏江湊で、代々舟問屋を務め、大きな経済力を誇ったとされる吹原家ですが、最近、隣町である垂井町の南宮大社に石鳥居を寄進したのが、この吹原家であるという話を聞くことができました。
ただ、町史などには記述されていない話だったので、その由縁を確認してみたところ、どうも石鳥居に吹原の名が刻まれていることがその根拠になっているみたいですね。
そのため、早速、先週の休みを利用して、現地を確認してきたのですが・・
どこに刻まれているのかよく分かりませんでした。
今度は、情報提供者に同行いただいて、再チャレンジしたいと思います。
流された橋の木材。
2014.02.13
昭和10~20年代頃、台風で大雨が降り、牧田川に架かる木製橋が流されると、堤防には朝早くから多くの人が集まってきました。
目的は上流から流されてくる木材を引き上げるためです。
どうも、この頃木製橋に使用されていた建築部材は良質なものであり、さらに加工もなされていたため、そのまま建物の修理などに使用することができ、大変貴重であったみたいですね。
朝から早い者勝ちで引き上げていき、持ち帰って畑などに隠したそうです。
ちなみに、この木材競争で有利だったのが、牧田川の北岸の集落でした。
養老町では台風は西から東に抜けていくため、台風が過ぎた後は南風が吹き、流された木材の大半は、北岸に引っかかっていたためです。
上の写真は、そんな競争の激しかった場所の一つである養老町橋爪付近の牧田川北岸を撮影したもの。
このあたりでは、主に広瀬橋が流されてくるのを狙ったみたいですね。
当時の橋爪は、象鼻山を所有しており、他の村に比べて木材には恵まれていたはずですが・・
この話を聞いて、改めて当時の人たちにとって山の資源がいかに重要であったかを感じることができました。
養老町最後の水騒動。
2014.01.21
集中豪雨と伊勢湾台風による大災害のさらに2年前の昭和32年(1957)、五三川にかかる燈明橋付近で、養老町最後の水騒動がありました。
事の発端は、大雨で大量の水が一度に流れてくるのを恐れた養老町釜段の人たちが、水が流れてこないように上流で五三川を塞いでしまったこと。
これにより、さらに上流に位置し、主に五三川で排水を行っていた下笠輪中に水が溜まり、機動隊が出動する大騒動になりました。
当時、下笠側として騒動に参加した方によると、住民と機動隊がもみ合う事態になっていたみたいですね。
ちなみに、この騒動は最終的に話し合いで一段落するのですが、解決に時間がかかりすぎたため、そのとき既に水は引いてしまっていました。
結果だけみれば、騒動によって時間を稼ぎ、稲を水から守った釜段の作戦勝ちなんでしょうね。
山田貞策さんの情報を追加しました。
2013.12.27
鬼面山谷五郎の灯明。
2013.12.26
養老町鷲巣の白山神社の境内に、養老町出身で、岐阜県で唯一の横綱である鬼面山谷五郎が寄進した灯明があります。
文久元年(1861)に、三役に昇進した鬼面山が、故郷である養老町で父親の追善相撲を催した際に、寄附されたものみたいですね。
確か、故郷に戻った鬼面山が、水害で困窮していた鷲巣の住民に十両を配ったという出来事を記録した古文書の年代も、文久元年だったと思います。
根拠となった資料を見たことがないので確かなことは分かりませんが、ひょっとしたら、灯明と十両の寄附は一連の出来事だったのかもしれませんね。
「読書百遍」の石碑。
2013.11.29
上多度小学校の中庭に、「読書百遍」と刻まれた石碑があります。
これは、上多度小学校図書館の設立15周年となる昭和40年10月に、当時の親御さんたちが、水谷三郎さんに感謝を込めて建立したもの。
当初は、上多度小学校の校庭側の校門を入ったところに建てられ、児童達は毎朝この碑を目にしながら登校していましたが、新校舎が整備された昭和55年頃に現在の場所に移されました。
それにしても、「読書百遍」という言葉で、いかに水谷三郎さんが母校の子ども達の読書習慣の定着を願っていたかが分かりますよね。
そして、その願いは、昭和53年7月に三郎さんが亡くなられてからは、長男の和郎さんによって引き継がれました。
ただ、和郎さんにとって水谷賞の継続は、先行きに不安がある中での大きな決断だったようで、50回を記念して発行された冊子の中で、当時のことを「取敢えず可能なところまで続けようと心に決めて父の遺志を引き継いだ」と振り返っておられます。
しかし、そんな和郎さんの水谷賞は今年で36回目を迎え、三郎さんの14回をはるかに上回る回数となりました。
上の写真は、そんな思いがこもった「読書百遍」の碑が建立されたときに、石碑の前で、水谷三郎さん(左)と水谷賞創設を提案した安福彦七校長(右)を撮影したもの。
二人にも水谷賞が50回目を迎えたことを伝えたいですね。
山口俊郎先生の三十三回忌法要。
2013.11.26
昨日、養老町高田出身の音楽家である山口俊郎先生の三十三回忌法要が専念寺で行われました。
山口先生は、昭和56年に80歳で他界されるまで1000曲以上の作品を手掛けた人物。
亡くなられる直前には作品の著作権を養老町に寄贈したり、山口記念会館を建設したりされていて、地元の方々はたいへん喜んだそうです。
しかし、ご本人は「生まれ故郷の土に帰るための置き土産」と淡々と語られたみたいです。
そして、そんな山口先生が亡くなられた2年後、養老町には山口俊郎先生顕彰会が設立されました。
下の写真は、そんな顕彰会が設立した年の11月25日に行われた慰霊祭の様子です。
たくさんの参列者の中には、三橋美智也さんの姿も見え、改めて山口先生の人柄が偲ばれますね。
引き続き、功績の顕彰に勤め、50回忌も大勢の方に参列していただけたらと思います。
幼い者に知慧の場を。
2013.11.21
昭和25年(1950)に水谷三郎さんが母校である上多度小学校へ本の寄贈をはじめたことをきっかけに、昭和39年(1964)に創設された水谷賞の授賞式が、今年で50回目を迎えました。
ちなみに、水谷賞とは、上多度小学校の全児童が参加する読書感想文コンクールのことです。
上多度小学校では、これを記念して冊子も作成されており、その中には、昭和29年(1954)1月21日に上多度小学校図書館が東海三県学校図書館コンクールに入賞した際に、水谷三郎さんから寄せられた原稿が再掲載されていました。
そのタイトルが「幼い者に知慧の場を」です。
少し長いので、全ては引用しませんが、「私は幼い者たちが、大人になって世の荒波にもまれるまでに、できるだけ多くの文学や歴史や絵、そしてできれば美しい音楽に親しみ、科学的教養とともに、文化的教養を積み重ねられるような素地をつくっておいてほしい」という水谷三郎さんの言葉がとても印象に残りました。
また、最後は、「内容や外観をもっと整えて、次の機会にも輝かしい栄誉を荷い続けることも大切でしょうが、本当に幼い人たちに、知識とともに、知識でない知慧になるような役割を、此の図書館が果たすことを切に祈ります」という言葉で締めくくられていました。
こうした学校独自の取り組みが50年間続くことが、まずすごいと思いますが、ひき続き、上多度小学校には、水谷三郎さんの願いを大切に守っていっていただきたいです。
「山田貞策さん」PDFデータの公開。
2013.11.08
『みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん』のPDFデータを電子書庫に公開しました。
養老町大巻の排水機設置をはじめ、池辺村村長を務めたり、八沢浦の干拓を行ったり、薩摩義士顕彰会を設立したりと、様々な事業に取り組んだ山田貞策さん。
この本の第7章には、そんな貞策さんの素顔について、子孫の方から伺うことができたお話も掲載しています。
読んでいただければ、きっと、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子が、このタイトルになった理由が分かっていただけると思いますので、ぜひ一度、目を通してみてください。
土屋輝雄の竹の襖絵。
2013.11.06
千歳楼旅館の客室の一つに、「竹の間」という竹をモチーフにした八畳の和室があります。
昭和初期の造りで、天井や床の間、障子など細部にまで竹があしらわれており、とっても魅力的な部屋なのですが・・
ご主人によると、当初の襖絵は、養老町高田出身の画家である土屋輝雄によって描かれたもので、現在のような細い竹ではなく、とても太い竹が描かれていたそうです。
その当時の「竹の間」の様子を撮影した貴重な写真が上の一枚。
太いとは聞いていましたが、すごい迫力ですよね。
改めて、土屋輝雄のすばらしさを感じるとともに、千歳楼が多くの文化人に愛されてきた理由が分かるような気がしました。