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飯田の寺社記録。
2013.10.31
先日、養老町飯田の寺社記録のコピーを見せていただく機会がありました。
正確な年代は分かりませんが、正徳元年(1711)くらいからの記録がまとめられており、著者名から文政年間(1818~1829)くらいに作成されたものと推定できるようです。
その内容は、八幡社などの創建年代をはじめ、社の修理記録やそれぞれの神社の祭礼スケジュールなど多岐にわたっており、飯田の寺社を考える上でとても参考になりました。
中でも、まず目に留まったのが、上の写真に示した当時の東西境内地の平面図。
現在は、全ての社が東の境内地にまとめられていますが、文政年間の配置はこんなかんじだったんですね。
聞き取りした内容と矛盾する部分があり、養老ノートの内容を一部訂正する必要がでてきました。
このほかにも、寛文10年(1670)頃までは、西の境内地に、高さ約18cmの薬師如来立像をおさめた二間四面の薬師堂があったのですが、お堂が荒廃し、その頃の飯田村に余裕がなかったために、仏像を直江の西光寺に預けたことなども記されていました。
それで、西の跡地をお薬師さんと呼ぶ人がいるんですね。
これ以外にも、いくつか新しい発見があったので、もう少し精査したら、またご紹介させていただきたいと思います。
五社神社の例祭。
2013.10.30
今月の6日に養老町宇田で行われた五社神社の大例祭に、ドイツのバッドゾーデン市の文化交流団とともにお邪魔しました。
宇田の五社神社は、その名の通り、5つの神様が祀られている神社。
その内訳は大縣神社・八幡神社・三嶋大社・住吉大社・春日大社になります。
主となる神様は大縣神社で、その後、他の4社を合祀して現在の姿になったみたいですね。
ちなみに、大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、美濃国神名帳の多藝郡16社の一つでもあり、往古の当地県主を祀ったものとされている神社。正六位上大縣明神とされていて、美濃明細記などには、「縣明神は多芸郡宇田邑に在り。正六位上大縣大明神境内六反余領主より除地云々」という記述もあるようです。また、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで社殿を焼失しているみたいですね。
このほか、周囲には日吉遺跡が広がっており、考古学的にもたいへん気になる神社です。
ただ、残りの4社の元位置など、あまり詳しい情報は得られていません。
大縣神社の場所は昔から変わっていないという話なんですが、これも少し東に本堂という小字があり、やや疑問が残りますね。
いろいろと課題が多く、すぐには解決しないでしょうから、しばらくは幸運を待ちたいと思います。
養老公園開設前の広告。
2013.10.29
養老公園開設の6ヶ月前である明治13年(1880)5月、養老公園を管理運営し、さらに発展させていくために組織された偕楽社は、養老公園の広告をつくり、あちこちに配りました。
それが上の写真になります。
実際に作成したのは、開設発起人の1人であり、国学者でもあった柏渕静夫氏です。
測量や民地の買い上げが終わり、工事にも着手しつつあったころにつくられたものみたいですね。
内容としては、「養老は有名な名勝であるが、長い年月の中で荒廃してしまったので、公園開設の許可が得られれば、瀑布の峻嶮を削平し、清潔な小屋を建て観瀑の便に供し、地を選んで数宇の亭榭(あずまや)を建築し、桜・楓など種々の花木を植えて一層の風致を加え、二帝宸遊の遺跡を千歳の下に輝かしめ、国民偕楽の地にしたい」というようなことが書かれています。
ここで、ちょっと気になるのが、瀑布の峻嶮を削平しという一文。
現在の養老の滝周辺は少し開けていますが、ひょっとしたら、このときに生まれた地形なんですかね・・
この養老公園広告の画像データは「タギゾウくんの収蔵庫」に保管してあります。
興味のある方は、ぜひ一度目を通してみてください。
旧養老公園事務所の鬼瓦。
2013.10.28
先日、旧養老公園事務所に葺かれていた鬼瓦の写真を見る機会がありました。
昭和59年に、養老公園事務所が高林地内に移された際、従来の建物を修繕することになり、廃棄処分されそうだったところを地元の方が収集したそうです。
笠松では知事官舎として使用されていたことを踏まえると、製作されたのは岐阜司町から移築したときでしょうね。
これにより、最初の養老公園事務所の移築が、ただ建物を移すだけでなく、部分的な修繕やデザインの変更を伴うものだったことがわかります。
それにしても、立派な鬼瓦ですね。
大きく「公園」と刻むところなど、個人的にも、好みのデザインです。
クサギの実。
2013.10.25
10月に入ってから、町内のあちこちでクサギ(臭木)の実を見かけるようになりました。
養老町に限らず、どこででもよく見かける植物で、雑草というイメージが強いですが、星形で赤紫色の萼と、黒い実のバランスがけっこうきれいですよね。
葉や茎から独特の匂いがすることから臭木と呼ばれているのですが、なるほど納得の匂いでした。
ただ、花の香りは悪くないですし、鳥が好む実もそれほどではありませんでした。
冗談ですむ程度の匂いなので、みなさんも見かけたら、チャレンジしてみてください。
えびぞうすいの仏様。
2013.10.24
養老町瑞穂の林照院に、「えびぞうすいの仏様」と呼ばれている仏様がいます。
この不思議な名前は、天明の飢饉(1782~1786)の頃、満足なお供えができず「ひえぼとけ」と呼ばれるようになり、美作(現在の岡山県)へ移ってしまった仏様が、大正8年(1919)に養老町瑞穂に戻ってくることになり、今度こそはということで、五三川で取れるもえびの入った美味しいぞうすいをお供えしたことに因るそうです。
地元に伝わるお話によると、えびぞうすいを供えるようになってから、ひえぼとけのお顔はふっくらするようになったみたいですね。
そんな仏様を撮影させていただいたものが上の写真です。
特別に見せていただくことができました。
善導大師という中国唐代の人物の尊像だそうです。
その表情は朗らかで、ひえぼとけと呼ばれていた面影は、もうありませんでした。
養老駅前区の公民館。
2013.10.23
養老鉄道ができたばかりの頃、その運行本数は2時間に1本でした。
そのため、駅前は、列車待ちをするお客でたいへん賑わい、土産屋や菓子屋、料理旅館などが建ち並んでいたみたいですね。
しかし、人が集まると、自然と増えるのがトラブルの数。
特に桜の季節は、お酒の勢いでよくケンカがあり、商店主たちは困っていたそうです。
そして、その解決策として実施されたのが、請願巡査の配置でした。
ちなみに、請願巡査とは、自治体や企業、個人などの請願に基づいて配置される警察官のこと。
その費用は、請願者の負担となるので、駅前商店13件がお金を出し合って、駐在所を建てたみたいですね。
この建物は、現在も駅前に残されており、養老駅前区の公民館として使用されています。
大正2年の養老駅前。
2013.10.22
先日、養老鉄道開通を迎えた養老駅前の写真を見ることができました。
大正2年(1913)に撮影されたものです。
たくさんの人力車が写っていますね。
このときの観光客の乗り物は、人力車がメインで、いつも10~15台の人力車が駅前で客待ちをしていたそうです。
また、養老公園へは上り坂が続くので、お客1人を運ぶのに、先引きと後押しで3人も必要だったみたいですね。
そんな風で、大変賑わいを見せていた養老鉄道開通当時の養老駅前。
この写真を見ていると、この翌年に養老自動車を起こす山田貞策さんの気持ちが少し分かるような気がします。
旧養老公園事務所の古写真。
2013.10.21
先日、旧養老公園事務所が現役だった頃の写真を見つけました。
これ1枚だったので、全体はよく分かりませんが、正面は今とそんなに変わりませんね。
役目を終えた後、養老公園駐在所としてしばらく利用され、その後、孝子館になった旧養老公園事務所。
ただ、その年代など、あまり詳しいことは分かっていないので、ひき続き情報収集を続けたいと思います。
どこかに、全体を撮影した写真が残ってないですかね・・
象鼻山のヤマツツジ保護。
2013.10.18
先週、象鼻山山頂部のヤマツツジを鹿の食害から保護することを目的として、わずかに自生する範囲に、獣害防止柵が設置されました。
地元である象鼻山整備促進協議会によるもので、期間限定の試みです。
昔は、象鼻山のあちこちできれいな花を咲かせてくれていたヤマツツジ。
しかし、近年は、鹿の食害や松の減少によって、ほとんど見られなくなってきていました。
その効果が明らかになるのは来年の初夏になりますが、きれいな花がたくさん咲いてくれるといいですね。
ただ、上手くいった場合は、柵をどうするか・・
また、相談させてください。
八幡神社タブノキの樹勢回復。
2013.10.17
養老町宇田の仁位八幡神社境内に、養老町の天然記念物に指定されているタブノキがあります。
このタブノキ、幹周りが約6m、高さが約22mの大きな木なのですが・・
最近、天頂部に枯死枝が多く確認できるようになってきました。
そのため、現在、地元で樹勢回復を目的とした保護事業が実施されています。
上の写真は、そんな事業の一環として実施している、根元開口部を塞ぐ作業を撮影したもの。
こうすることで、これまで内側に巻き込んでいた樹皮が、外側を覆うようになるそうです。
ちょっと、イメージしづらいですよね。
ひき続き、経過を観察し、その様子をこの目で見てみたいと思っています。
岡本喜十郎顕彰碑の元位置。
2013.10.16
先日、昭和6年(1931)に撮影された、牧田川改修工事起工式の神事の写真を見る機会がありました。
忠霊塔が写り込んでいるところを見ると、高田中学校の南の広場が会場だったようです。
よく分かりませんが、改修によって牧田川の南側流路が失われるため、この場所を選んだのかも知れませんね。
しかし、それよりも気になったのが、忠霊塔の奥に写り込んでいる石碑。
岡本喜十郎の顕彰碑ですよね。
まだ少し検証が必要ですが、昭和3年(1928)2月7日に建碑されたことを考えると、たぶんこれが元位置になると思います。
第14回「家族の絆愛の詩」最終審査会を開催しました。
2013.10.15
今日、「家族の絆愛の詩」の最終審査があり、今回応募頂いた2,299篇の作品の中から、最優秀賞、優秀賞、養老改元1300年記念賞、家族賞、佳作の44篇を選出しました。
昨年に比べ、応募数は少し減少しましたが、それでも良い作品が集まりました。
これらの入賞者の発表は、11月1日に、町のホームページ等で行います。
ぜひ、楽しみにお待ちください。
多良街道に標柱が設置されました。
2013.10.11
象鼻山の麓を通る多良街道跡(たらかいどうあと)に、新たに標柱と案内看板が設置されました。
地元である養老町橋爪の象鼻山整備促進協議会によるもので、これにより、街道の位置がよく分かるようになりました。
ありがとうございます。
ちなみに、多良街道というのは、養老町橋爪を経由して、大垣市上石津町多良と大垣市久瀬川を結んでいた古道。
今では、ほとんど残っていませんが、象鼻山の麓には、少しその雰囲気が残っています。
象鼻山に行かれた際には、ぜひこちらにも寄ってみてください。
船附民謡。
2013.10.10
先週の土・日曜日に、船附八幡神社の例祭におじゃまし、船附民謡を見学してきました。
船附民謡とは、鼠々森と六羽野、寺屋敷の自慢の太鼓とともに踊られる「でんがらかし踊り」「白川踊り」「どじょう踊り」の3つの踊りのことで、養老町の重要無形民俗文化財にも指定されています。
ちなみに、例祭での船附民謡は、太鼓の叩き手の気分に合わせて、でんがらかし踊り・白川踊りの2種類を交互に踊り、最後に、どじょう踊りで締めるというもの。
中でも、どじょう踊りは、日頃恵みを与えてくれる土への感謝を込めて、太鼓をわざわざ櫓から下ろし、足を地面に擦りながら踊られるもので、たいへん厳かなものと聞いていたため、とても楽しみにしていたのですが・・
今回はタイミングが合わず、どじょう踊りだけ見ることができませんでした。
来年は万障繰り合わせて見に行き、その厳かな雰囲気を皆さんにお伝えしたいと思います。
歴史講座が終了しました。
2013.10.09
今日、 無事に歴史講座が終了しました。
足下の悪い中、たくさんの方々にご参加いただき、ありがとうございます。
講師の石川先生からは、養老公園が、西洋の公園という新しい土地概念のもと、維新後に荒廃しつつあった社寺境内や名勝旧跡を保存しようという当時の日本の動向の中で開設されたことなどをお話ししていただき、たいへん勉強になりました。
また、討論の中での、赤塚先生の、「養老公園開設に携わった方々が養老公園に期待したものとは、個人の欲に基づくものではなく、養老の誇りや名誉を取り戻すことであっただろう」というご発言は、とても印象に残りました。
荒廃しつつあった養老の滝周辺を一大公園となし、養老の名誉を取り戻そうとした先人達。
どこか、現在の私たちが抱える課題に通じるところがあるような気がしますね・・
さて、次にニワ里ねっとさんと実施する事業は、11月10日(日)の文化遺産ウォーキング。
まだ少しだけ余裕がありますので、ぜひこちらもご参加ください。
第2回きのこワークショップ。
2013.10.08
一昨日の日曜日、午前10時30分より、第2回きのこワークショップを開催しました。
町民運動会や、お祭りで忙しい時期にもかかわらず、前回の参加者全員に参加いただきました。
ありがとうございます。
収穫適期よりやや遅れた時期での開催になってしまいましたが、子どもたちを中心に、少しずつマイタケの収穫を体験してもらうことができました。
ただ、持ち帰って頂くことができた量は僅かでしたね・・
しかし、今回栽培したマイタケは、一般に出回っている菌床栽培のものではなく、原木栽培の高級品。
きっと、美味しかったと思います。
こうした体験を通して、子どもたちがキノコと、キノコを生み出す山を好きになってくれるとうれしいです。
平成25年度田中道麿翁慰霊法要。
2013.10.07
先週の金曜日、平成25年度の田中道麿翁慰霊法要を無事に終了することができました。
ありがとうございます。
音響の調子が悪く、一時はどうなることかと思いましたが・・
広幡小学校6年生による和歌の発表だけでなく、養老吟詠会による和歌朗詠もあり、歌を愛した田中道麿翁にも喜んで頂けるような法要になりました。
つくってみると、不思議に心が和む和歌。
こうして、たくさんの方々が、和歌をたしなむ養老町になっていくといいですね。
飯田の旧養老街道沿いのお地蔵さま。
2013.10.04
養老町飯田の旧養老街道沿いには、地蔵堂が2つ建っています。
上の写真は、そのうち北側の村地蔵を撮影したもの。
どうみても、中世の五輪塔の火輪の上に、中世の石仏が乗っかっていますよね。
ちなみに、もう一つの地蔵堂にお祀りされているものも、中世の板碑でした。
このあたりが、遺跡であることは把握できていたのですが、ひょっとしたら墓域があったのかも知れませんね。
村地蔵の西側は、飯田八幡神社の元位置であり、さらにその場所のことを「お薬師さん」とも呼んでいたという情報がありますので、このことを手掛かりに、ひき続き、調査を続けたいと思います。
かわど。
2013.10.03
養老町の南小倉には、共同の洗い場が3カ所あり、いずれも「かわど」と呼ばれています。
ただ、なぜそんな呼ばれ方をしているのかや、どのような漢字を充てるのかが、よく分からなかったので、あとで少し調べてみたところ・・
「川端」という字を充てることが分かりました。
どうも、「洗濯・炊事をするところ」という意味みたいです。
一昔前までは、生活に川の水を利用することはごく当たり前のことだったので、その名残なんでしょうね。
南小倉の洗い場は、いずれも自然の湧水点を利用してつくられているので、河間(がま)の河の字を充てるのではないかと考えたりもしましたが、間違っていました・・