Yoro Park 養老公園の歴史
養老公園は、養老の滝を中心に養老山麓の大自然を取り入れ、景勝・歴史に彩られた岐阜県を代表する公園です。
岐阜県内では明治政府が設置した公園として、明治6年開園の城山公園(高山市)、大垣公園(大垣市)に次いで3番目となる、明治13年(1880)に開園しました。令和2年(2020)には開園140周年を迎えました。
1 養老公園ができるまで
養老改元
奈良時代の女帝・元正天皇は、霊亀3年(717)、美濃国に行幸され、当耆郡多度山の美泉をご覧になりました。元正天皇は「泉で手や顔を洗ったところ、肌は滑らかになり、痛みも消えた。また、この水を飲んだり浴びたりする者は白髪が黒くなり、髪が生え、目が見えるようになり、病気も治ったという。これは天のたまわりものに違いない。」と仰せられ、この出来事に感銘を受け、同年11月17日に元号を「養老」へ改元されました。この美泉は、養老公園内にある養老の滝や菊水泉だと言われています。
また、天平12年(740)には聖武天皇が東国行幸の折りに、当伎郡を訪れています。その様子は、付き人が詠んだ2首の万葉歌から窺い知ることができます。
古ゆ人の言いける老人の変若つとふ水そ名に負う滝の瀬 大伴宿禰東人
(訳 昔から人が言い伝えてきた、老人が若返るという滝である。その養老という名を持ったこの滝の瀬は)
田跡川の滝を清みか古ゆ宮仕へけむ多芸の野の上に 大伴宿禰家持
(訳 田跡川の滝が清らかだから、昔から多芸の野の辺に行宮を造って、お使え申し上げたのであろうか)
養老の滝周辺の寺社
養老の滝周辺の寺社のうち、古くから鎮座しているのが明らかなのは、養老寺と養老神社です。養老寺は創建不詳ですが、「養老寺略縁起」によれば、開祖は源丞内とされています。本堂は慶長12年(1607)に高須藩主徳永寿昌によって再建されており、その際に比叡山から植樹されたとのいわれがある徳永松が描かれた古絵図が残っています。
同じく養老神社も創建は不詳ですが、「美濃国神名帳」に養老明神という名称が見え、養老天満宮や菊水天満宮などとも呼ばれていました。古絵図には菊水天神と記載されており、元正天皇が訪れた美泉ともされる菊水泉が現在も境内に湧き出ています。
薬湯旅館の建設
青年の頃、山間の僻地である養老の開発を志した島田村(現養老町高田)の初代岡本喜十郎は、現在の養老公園内の土地を買い上げ、旅館「千歳楼」を建設しました。さらに、周囲の人々の反対を押し退け、明和8年(1771)には薬湯経営を開始しました。しかし、経営は難航し初代喜十郎は志半ばで亡くなってしまいます。その後、2代目喜十郎が千歳楼と薬湯を1ヶ所にまとめ、経営の合理化を図り業績は向上しました。そして、薬湯経営開始から約100年後の明治13年(1880)、養老公園が開園しました。岡本喜十郎父子等四代にわたる終生の努力は、明治に入りようやく実を結ぶことができました。
2 養老公園の開設
公園開設の経緯と偕楽社
明治維新後、荒廃しつつある社寺境内や名勝旧跡を保存しようと、日本で最初の公園開設に係る制度である太政官布告第16号が明治6年(1873)に発布され、「上野公園」や「奈良公園」などの、いわゆる太政官公園が誕生しました。養老公園もその一つであり、開設の経緯が分かっている数少ない太政官公園として、貴重とされています。
明治12年(1879)6月、勧業普及のため岐阜県へ遊説に訪れた大蔵太輔松方正義は、千歳楼で講演を行った後、園内散策に岐阜県令小崎利準を伴い、公園開設を要請しました。それを受けた小崎県令は、多藝郡内有力者10人に「養老公園開設発起人」を委嘱しました。発起人一同は、地元有力者を中心に約100名の会員からなる「偕楽社」を組織し、土地の測量開始から約11ヶ月という非常に短い工期で、養老公園開設を実現させました。開設後も公園の運営を任された偕楽社でしたが、徐々に社員数が減少し存続が難しくなり、明治30年(1897)に公園管理を郡営に移管し、解散しました。
養老公園の開設
明治13年(1880)10月17日、養老公園が開設しました。偕楽社が中心となり盛大な開園祝賀式が催され、二昼夜48時間にわたり花火が打ち上げ続けられました。また、千歳楼には多くの来賓や地元有力者が招かれ、名古屋から料理人を呼び饗宴も催されました。式では小崎県令が開園の祝辞を述べています。
新たに開設した養老公園には、さらなる発展をはかるために宗教施設を誘致するとの県令小崎の指導により、養老説教場や妙見堂などが整備されました。
3 養老鉄道開通と公園改良
養老鉄道開通
大正2年(1913)7月31日、養老鉄道株式会社が池野-養老間(現在の池田町池野駅と養老町養老駅間)の営業を開始し、養老公園のすぐ下に養老駅が整備されました。
続いて大正8年(1919)4月27日には、池野-揖斐間、養老-桑名間が開通し、ここに揖斐・桑名間全線開通となり、永く山間僻地の景勝と埋もれてきた養老が、一躍天下の名勝に列し、四方遠来の観光客を迎えるところとなりました。
養老駅前には、土産物屋や飲食店、菓子屋、人力駐車場、運送店などが並び、公園案内看板のほか、蒸気機関車のための給水設備を利用して噴水池も整備されました。新たな玄関口の完成は、これまで街道沿いに整備されてきた養老公園の姿を大きく変えていきました。
公園改良と更なる発展
大垣市出身の立川勇次郎により養老鉄道開設が計画されたのは、鉄道開設2年前の明治44年(1911)のことでした。これを契機に、養老郡と養老公園保勝会は、観光客誘致のため、公共交通の発達に適応した公園改良に着手します。
大正元年(1912)には、「日本の公園の父」と称された本多静六による現地調査と講演会が行われ、大正3年(1914)には、長岡安平らにより公園設計参考書が提出されました。
本多や長岡の改良案は、駅と公園を結ぶ周遊道路整備や自然環境の保全、衛生施設の設置をはじめ、動物園や運動場、テニスコート、眺望台といった施設整備のほかに、駅前の案内看板設置や新たな名物づくり、割引券や絵葉書の発行などにも含んでおり、大変幅広い内容でした。
4 大正~昭和の養老公園
養老鉄道の電化後
鉄道開設から10年後の大正12年(1923)、養老鉄道全線の電化が完了しました。また、同じ年の郡制廃止に伴い、養老公園の管理が養老郡から岐阜県に移り、県内初の県営公園となりました。
これ以降の公園案内絵図を見ると、公園と養老駅を結ぶ幹線道路をはじめ、滝谷を渡る橋などが整備され、養老寺の隣には自動車停留所も設置されています。また、滝谷南側には動物園やつつじ園、テニスコートも整備されました。
公園案内に養老豆や養老酒といった名物の広告が掲載されるのもこの頃からであり、大正~昭和初期の養老公園は、本多や長岡の改良案に大きな影響を受けて、公共交通の発達に適応した変遷を辿りました。