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厳如上人お手植えの松。
2013.08.23
養老説教場本堂の北に、厳如上人が植えたと伝わる松があるという情報を得ました。
手掛かりは、松のそばに、「千代の栄」と刻んで建てられたという石碑です。
ちなみに、厳如上人(ごんにょしょうにん)とは、東本願寺の第21世法主を務められた方で、明治14年(1881)10月に、養老公園の開設に合わせて規模が拡大された養老説教場を訪れています。
ということは、残っていれば樹齢130年ほどの大きな松があるということですよね。
早速、確認に伺ったのですが、残念ながら、そんなに大きな松は残っていませんでした。
ただ、本堂の北には、千代の栄と刻まれた石碑と、新たに植えられた思われる小さな松が・・
大きな松に育ってくれるといいですね。
瑞穂東の辻地蔵。
2013.08.22
養老町の瑞穂東に、道路の辻にお堂が建っていることから、辻地蔵と呼ばれているお地蔵さまがいます。
ちなみに、辻とは、道路が交わる場所のことなんですが、このお地蔵さまは、もとは現在地より100メートルほど北へいった牧田川堤防上にお堂があったそうです。
つまり、辻地蔵と呼ばれるようになったのは、戦後の河川改修で現在地に移ってからのことだったのかもしれませんね。
ただ、この辻地蔵、これ以上の情報がなかなか集まってこないので、地元の聞き込みを続けていると、今から60年ほど前まで、瑞穂東で結婚式があると、村のお地蔵さまを、その家の軒先に運び込むのが恒例になっていたということが分かってきました。
辻地蔵だけの話ではないのですが、どうも地域の中で結婚式があると、青年団が中心となって、夜中のうちに村中のお地蔵さまを、その家の軒先に並べて帰ったようです。
数に制限はなく、お供えをすることや、もとの場所にお戻しするところまで全て、地蔵が運び込まれた家が面倒をみたみたいですね。
さらに、ご丁寧なことに、お地蔵さまの足の裏には、場所を示した紙が挟まれており、返す場所が分からなくなることもなかったそうです。
それにしても、終戦くらいまでの養老町には、こういった結婚式とお地蔵さまが結びついた話が多いような気がしますね。
もう少し、情報が集まれば、一度まとめてみたいところです。
養老説教場の「夏の御文」
2013.08.21
昨日、養老公園にある養老説教場で、「夏の御文(げのおふみ)」が勤められたので、お邪魔してきました。
ちなみに、夏の御文というのは、蓮如上人が亡くなられる前年に書き遺した4通の手紙を拝聴し、信心の大切さを確かめ合う仏事のこと。
養老説教場では、毎年、お盆過ぎのこの時期に実施しているみたいです。
その折、見せていただいた説教場に関する資料によると、本山から夏の御文が養老説教場に下附された年が大正3年(1914)となっていたので、もう100年近く続けられているんだと思います。
養老説教場には、専従の住職や門徒がおらず、町内の真宗寺院と世話方だけで管理していることを考えると、大変なことですよね。
養老競馬場。
2013.08.20
昔、養老町には競馬場がありました。
町史などに記事が無く、あまり詳しいことは知らないのですが、昭和13年(1938)に開設されたようです。
ただ、長続きせず、翌年には廃止されてしまったみたいですね。
上の写真は、その後宅地に変わったものの、わずかに養老競馬場の名残が残る、養老町鷲巣の道路の様子。
東側のストレート部分を北西側から撮影したものになります。
地図を眺めているだけでは、よく分かりませんでしたが、ここに立つと、少し馬が走っている様子が想像できますね。
とはいえ、百聞は一見に如かず。
ひき続き情報収集を続け、できれば当時の写真などを見つけたいと思います。
養老駅前の池。
2013.08.19
養老駅にある駅前区の公園内に、噴水が設置された小さな池があります。
この池、実は養老の滝から流れてくる水を使用していて、元々は、養老鉄道を走る蒸気機関車へ給水するためのものでした。
地元の方によると、噴水が出ているあたりに、給水ポンプがあったそうです。
大正12年(1923)に養老鉄道が電化されて、汽車が電車に変わるまで使用されていたみたいですね。
養老鉄道に蒸気機関車が走っていたことを思い出させてくれる数少ない場所ですので、ぜひ養老駅を利用する際には、こちらにも足を運んでみて下さい。
マイタケ生育状況4。
2013.08.16
先月11日のマイタケ原木の伏せ込み作業から、約1ヶ月が過ぎました。
うまくいけば、あと1ヶ月ちょっとで収穫できるはずなんですが、今のところ、特に変わった様子は見て取れません。
初めてのことですし、あんまり変化がないと、ちょっと不安になりますね・・
ひき続き、豊作を信じて、水やりを続けていきます。
象鼻山入口の看板が新しくなりました。
2013.08.15
象鼻山古墳群への登山道入口を示す案内看板が新しくなりました。
地元である養老町橋爪の象鼻山整備促進協議会によるもので、これにより、入口の位置が、以前よりも分かりやすくなりました。
ありがとうございます。
ちなみに、材料となったヒノキは、眺望回復作業の際に象鼻山から下ろされたもの。
この案内看板の他に、個々の古墳の文化財愛護標柱にも活用される予定です。
言われなければ分からないことですが、象鼻山の木材でつくられていると思うと、なぜか以前の案内看板よりも愛着を感じます。
旧養老公園事務所。
2013.08.14
養老公園の養老寺の西隣に、かつて養老公園事務所として使用された建物が残っています。
これは、大正12年(1923)に、養老公園が養老郡営から岐阜県営に移管する際、園内に事務所になる建物がなかったため、笠松から岐阜司町に移され改築中であった元県庁の古庁舎の一部が移築されたもので、それに掛かる費用は、千歳楼に収蔵されてきた諸名士の遺墨及び郡内から寄贈をうけた書画類を指名入札に付した収入金で賄われました。
ちなみに、収入金の合計は1,200円で、このときに競売を免れた有栖川宮熾仁親王や三条実美の遺墨額面は、現在も千歳楼に保管されています。
ただ、このときに、どのような遺墨や書画類が売却されたのかが、よくわかっていません・・
この当時に1,200円の値が付くからには、きっと貴重なものもあったでしょうね。
ひき続き情報収集を続け、せめてどんなものが千歳楼にあったかぐらいは把握しておきたいと思います。
棚橋碌々翁の墓。
2013.08.13
養老町の白石区の墓地に、棚橋碌々翁(ろくろくおう)という人物のお墓があります。
この方は、美濃派獅子門道統(以哉派)という松尾芭蕉の流れをくむ一派の宗匠を務めた人物で、とても立派な方なのですが・・
実は、養老町ではなく、隣町の輪之内町の出身です。
どうして、そんな方のお墓が、養老町にあるんでしょうね。
墓碑の裏書きによると、少なくとも、それが本人の意志であったことは分かるのですが、その理由は記されていませんでした。
ひき続き、情報収集が必要ですね。
さて、今日は、養老町薩摩義士顕彰会主催による、薩摩義士夏季慰霊法要が執行されました。
酷暑の中、多数のご参列、本当にありがとうございました。
「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」一般販売。
2013.08.12
養老町大巻出身で、薩摩義士顕彰会の設立をはじめ、様々な社会貢献を行ってきた山田貞策さんの生涯をまとめた冊子が完成しました。
明日から、60冊限定で、一般販売を開始します。
金額は800円です。
購入を希望される方は、養老町教育委員会生涯学習課(0584-32-5086)へご連絡ください。
受付時間は平日の8:30~17:15になります。
「薩摩義士の如き産業上の献身者こそ、真の義士の模範となすべき」と考えた山田貞策さん。
この冊子を読めば、山田貞策さんこそが、この言葉の最も忠実な実践者であったことが分かっていただけると思います。
なるべく平易な文章を用い、読みやすいものにしてありますので、ぜひ目を通してみて下さい。
なお、この冊子は、将来電子書庫でも公開する予定があります。
ヤマトタマムシ。
2013.08.09
先週、象鼻山の麓で、タマムシを見つけました。
きれいな羽根が特徴的な虫ですが、どうもこれには、鳥から身を守る効果があるみたいですね。
ちなみに、見つけたのは真夏の炎天下で元気に飛び回るヤマトタマムシという種類です。
熱中症注意のサインだと思わなきゃいけませんね。
養老温泉入浴券。
2013.08.08
先日、明治18年(1885)に発行された養老温泉入浴券を見る機会がありました。
養老公園開設後のもので、株主事務所から発行されていることから、偕楽社内にあった温泉の入浴券だと思います。
ちなみに、ご先祖が養老公園開設担当委員を務めたお宅に保管されていたもので、未使用のまま10枚くらいの束になっていました。
偕楽社が解散するまでには10年以上あったはずですが、なぜ使ってしまわなかったんでしょうね。
岡本村吉。
2013.08.07
明治の終わりから大正の初めにかけて、豆馬亭の東の「うしろ谷」で、大変貧しい生活を送っていたという岡本村吉ですが、この方が四代目岡本喜十郎の長男であったことがわかりました。
血縁がなかったというのは、間違いだったみたいです。
ちなみに、天保14年(1843)12月10日の生まれでした。
いまさらですが、四代目喜十郎の幼名は才吉で、さらにその父の名は勇吉。
村吉という名前で、その可能性に気づくべきでしたかね・・
この他に、養老町の白石にお墓があるという情報もあるので、近いうちにこちらも確認に行こうと思っています。
橋爪神明神社の鳥居が新しくなりました。
2013.08.06
今日、象鼻山のふもとにある、養老町橋爪の神明神社の鳥居が建て替えられました。
新しい鳥居は、眺望回復作業の際に、象鼻山から下ろされたヒノキで造られており、その加工から設置まで全て地元の方々によって行われました。
橋爪には、器用な人が多いですね。
ちなみに、先代の鳥居は、約20年ほどで、一番高い笠木と呼ばれる部分を中心に傷みが見られたので、今回新たに設置した鳥居は、笠木部分もアルミ板で保護したそうです。
今度は、もっと長持ちしそうですね。
高田の天神祭。
2013.08.05
昨日、朝8時から養老町高田の愛宕神社境内にある天満宮の例祭におじゃましてきました。
初めて伺ったのですが、天満宮があるのは、高田西町だけではなかったんですね・・
当日になって、高田西町以外に、高田東町、高田常盤町、高田中町でも天神様がお祀りされていることを知りました。
ちなみに、10年位前まではこれに高田夏祭りが一体となったものが「天神祭り」と呼ばれていたみたいで、どうやら、開催日が毎年8月4日に固定されていることが、天神祭りから夏祭りを分離させる原因の一つになったようです。
そんな理由で、現在の天神祭りは、それぞれ4ヶ所での祭事のみですが、参列者の中には子どもの姿も目立ちました。
学業の神様ですもんね。
夏休みの宿題、しっかり頑張って下さい。
「タギの国の秘伝レシピ」公開。
2013.08.02
養老町教育委員会では、養老町の風土に適応した食文化を将来に保存・継承することを目的として、「タギの国の秘伝レシピ~養老町郷土料理の記録ノート~」を制作しました。
このコンテンツは、iBooks形式という、iPadで読むことができる電子書籍を採用していて、養老町の郷土料理に関する情報を、動画や3Dデータなどで見ることができるようになっています。
おいしい料理の作り方が分かるだけでなく、直感的な操作を楽しめるものにもなっていますので、ぜひ、電子書籍(iPhone/iPad用)のコーナーからダウンロードしてみて下さい。
きっと、気に入っていただけると思います。
押越不動堂の棟札。
2013.08.01
先日、養老町押越の不動堂に納められている棟札を見せていただく機会に恵まれました。
表面は、梵字の他に
「延宝八庚申暦 大越家法印
奉修不動明王法金山冨貴繁昌祈所
八月大吉祥 成就院敬白」
と書かれていて、
裏面は梵字だけでした。
少なくとも、延宝8年(1680)には、押越に不動明王がいたということでしょうか。
ただ、現在お祀りされている不動明王には、宝暦12年(1762)に安置されたという話もあるので、まだもう少し、調査を続ける必要がありそうです。
「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」校了。
2013.07.31
養老町教育委員会で作成を進めている山田貞策さんの生涯をまとめた冊子ですが、ようやく今週校正を終了することができました。
来月13日の薩摩義士慰霊法要に間に合いそうで、ほっとしています。
養老町大巻に日本で初めて水車式排水機を設置したり、池辺村村長を務めたり、薩摩義士顕彰会を設立したりと、様々な事業に取り組んだ山田貞策さんですが、本書には、それらの功績だけでなく、子孫の方からお話しを伺うことのできた貞策さんの人柄などについても掲載することができました。
8月13日以降、関係機関に配布を開始し、希望者には販売も行う予定です。
また、少し時間はかかるかもしれませんが、電子書庫でも公開します。
みなさんも、ぜひ一度、目を通してみてください。
きっと、養老町にこんな人がいたということに、驚くと思います。
愛宕神社の茅の輪。
2013.07.30
一昨日の日曜日、養老町高田の愛宕神社の境内に、直径2.5mほどの大きな茅の輪が作られました。
8年くらい前から、高田西町の方々によって続けられている行事で、材料となる茅は牧田川の河川敷から採集してきたみたいですね。
8月18日の日曜日まで設置されているそうなので、ぜひ、茅の輪をくぐり、穢れを祓いに愛宕神社へお参りに行ってみてください。
火打石ワークショップが終了しました。
2013.07.29
一昨日の土曜日、養老町歴史ワークショップ「養老石で火を起こそう」が無事に終了しました。
たくさんのご参加ありがとうございます。
今回で3回目を迎えた火打石ワークショップですが、やはり、火花が飛び、火が付いたときの子ども達の反応が、とても印象的でした。
ほとんどの参加者が、こんなもので本当に火が付くのかと疑っているのが、よくわかりますね。
そして、その分、火が付いたときの驚きも大きいように思います。
今後は、スタッフもずいぶん慣れてきたので、火打石で発火させた火を移し取る火口(ほくち)作りや、火打石の採集なども、計画していこうと思いますので、また機会があれば、ぜひご参加下さい。
それにしても今回は、講師の、名古屋城下町で養老石がよく見つかるようになるのは18世紀の後半からのようだというお話が、とても気になりました。
岡本喜十郎が火打石の採掘販売を思い立ったのがこの頃ですよね・・
養老町史にも、安永9年(1780)の白石村庄屋の火打石採掘願が掲載されています。
ひょっとしたら、名古屋城下町の考古学的成果は、こうした資料を裏付けるものになるのかもしれませんね。