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文化財の防火査察が実施されています。
2014.01.23
26日の第60回文化財防火デーにあわせ、養老町でも、養老消防署による防火査察が実施されています。
上の写真は、その様子を撮影したもの。
文化財の管理状況や火気の取り扱い状況、電気配線の点検などについて、指導がなされました。
査察は、明日も引き続き実施されます。
今回、査察の対象となっていない文化財所有者や管理者の方々も、ぜひこの機会に文化財周りの再点検をお願い致します。
タギゾウくんの絵本シリーズ第7弾。
2014.01.22
今年度に進めているタギゾウくんの絵本シリーズ第7弾のイラストがおおよそ完成しました。
タイトルは「タギゾウくんと不思議なようせい」になる予定です。
養老町の根幹をなす養老断層をテーマにしたお話で、タギゾウくんは妖精の不思議な力をかりて、タギの国に起きる地震の問題に取り組むことになります。
公開は、まだ少し先になりますが、ぜひ楽しみにお待ち下さい。
養老町最後の水騒動。
2014.01.21
集中豪雨と伊勢湾台風による大災害のさらに2年前の昭和32年(1957)、五三川にかかる燈明橋付近で、養老町最後の水騒動がありました。
事の発端は、大雨で大量の水が一度に流れてくるのを恐れた養老町釜段の人たちが、水が流れてこないように上流で五三川を塞いでしまったこと。
これにより、さらに上流に位置し、主に五三川で排水を行っていた下笠輪中に水が溜まり、機動隊が出動する大騒動になりました。
当時、下笠側として騒動に参加した方によると、住民と機動隊がもみ合う事態になっていたみたいですね。
ちなみに、この騒動は最終的に話し合いで一段落するのですが、解決に時間がかかりすぎたため、そのとき既に水は引いてしまっていました。
結果だけみれば、騒動によって時間を稼ぎ、稲を水から守った釜段の作戦勝ちなんでしょうね。
桜井の代参選び。
2014.01.20
徐々に少なくなってきていますが、養老町には、伊勢代参(いせだいさん)という行事が残っています。
ちなみに、伊勢代参とは、集落を代表して伊勢神宮に参拝し、集落の五穀豊穣や無病息災などを願うこと。
集落によって、違いもありますが、代参者を「くじ」で選ぶのは比較的共通しています。
上の写真は、そんな「くじ」の様子を、養老町桜井の白鳥神社で撮影させていただいたもの。
宮当番だけが集まり、宮役の方がふって出た紙に書いてある名前の方が当たりというものでした。
選ばれた人には、その後で知らされます。
私の住む西岩道では、全員が集まる中、自分でくじを引くので、その違いがとても新鮮でした。
ナンテンの白い実。
2014.01.17
先日、養老町桜井にあるお宅で、白い実を付けたナンテン(南天)を見かけました。
ナンテンは、「難を転じる」縁起の良い木として、養老町でも人気で、現在でも玄関脇や庭隅などに植えられているのをよく見かけるのですが・・
赤いものが主で、白いものはあまり見かけなくなってきましたよね。
40年くらい前には、私の家にも生えていて、喉が痛むと、南天の白い実を煎じて飲んでいました。
ちなみに、はっきりとは覚えていませんが、ほんのり甘い味がしたような気がします。
砂糖か蜂蜜が入っていたんですかね。
現在は、良い薬があるので、この先に煎じて飲む機会はないでしょうが、機会があれば、庭隅に植えてもう一度育てたいと思いました。
船附の沖積世基底礫層。
2014.01.16
先日、養老町船附で地盤調査を行っていた方から、その周辺の沖積世基底礫層の深さが地表下約68mであることを教えていただきました。
ちなみに、沖積世基底礫層(ちゅうせきせいきていれきそう)とは、洪積世と沖積世の境界をなす堆積層のこと。
大雑把にいうと、約1万年前の地表面を形成していた土層のことになります。
これまで、養老町の沖積世基底礫層の深さは、おおよそ地表下50~70mの間に収まるものと勝手に思っていましたが、養老町でも東部に位置する船附で68mを測ることを考えると、町内には70m以上の深さに達しているところもあるかもしれませんね。
話しを聞く程度ですが、引き続き情報収集を続け、養老町の最終氷期を考える手掛かりにしたいと思います。
一夜地蔵。
2014.01.15
養老町大野の覚林寺の西側には、一夜地蔵と呼ばれているお地蔵さまがいます。
養老町史によると、大正時代中頃のある夜、だれかが大野の堤防にお地蔵さんを置いていったため、一夜のうちに突然現れたことから、一夜地蔵と呼ばれているようです。
村の人からすれば、突然のことだったでしょうが、それでもお堂を建ててお地蔵さまを安置することにされたみたいですね。
現地を確認した時に、地元の方に少しお話を伺ってみると、地蔵堂は以前、大野村の堤防にあったようで、大野村が堤防の東から西に移るのに伴い、一夜地蔵を現在地に移したことを教えていただきました。
ただ、大野村が移動した時期や状況があまりはっきりと分からないので、もう少し調べてみる必要がありそうです。
ちなみに、お地蔵さまの足元の石台には「大野村内二 四十六」と書かれていることも確認できました。
なにか、お地蔵さまを知る手がかりになりますかね。
1月24日あたりに初地蔵が行われるそうなので、私もお参りに行って、もう少し詳しくお話を伺いたいと思います。
桜井の粥占い。
2014.01.14
養老町には、粥占い(かゆうらない)といわれる、小豆粥で、その年の作柄を占う風習が残っています。
大釜で小豆粥を煮る際に、竹の管を入れ、小豆や粥の詰まり具合を見て占うというもので、小正月の頃に、左義長とあわせて行われることが一般的ですが、作柄数や天候、全体運など、占う内容は、地区ごとにそれぞれ異なっています。
ちなみに、上の写真は、この月曜日に桜井区で行われた粥占いの様子を撮影したものです。
春作の部の、麻・小麦・紫雲英(レンゲ)・大豆・小豆・落花生・芋・甘藷(サツマイモ)の8品目と、夏作の部からの、山科・こしひかり・早生餅・日本晴・中生千本・初霜・晩生餅の7品目に、照りと総札を加え、全17項目が占われていました。
その結果は、総札が7分と、全体的には、去年よりも良い結果が得られていましたが・・
春作の部では、芋の2分など、やや不安の残る結果もでていました。
少し注意が必要ですかね。
広幡の由来。
2014.01.10
養老町に広幡(ひろはた)という名称が生まれたのは、明治30年(1897)に、飯ノ木村・大跡村・口ケ島村・西岩道村・岩道村が合併して、広幡村が誕生したときでした。
その後、広幡村は合併して養老町になりますが、「広幡」の名称は、現在でも、地区名や小学校、公民館などに残されています。
そんな「広幡」の名称ですが、実はその由来は、村中が広く八幡神社の氏子であるからというものでした。
確かに、いわれてみれば、飯ノ木や口ケ島、西岩道の氏神様は八幡神社ですよね。
また、大跡の六社神社にも八幡神社が祀られています。
ただ、岩道の氏神様だけは、八幡神社ではなく、早扉(はやと)神社ですよね。
広幡の名称が生まれるとき、岩道の人たちがどのように感じたのか、ちょっと気になります・・
烏江の地名の由来。
2014.01.09
養老町には、烏江(からすえ)という地名があります。
ちょうど、養老鉄道が牧田川を渡るあたりのことで、江戸時代には、ここで牧田川と杭瀬川が合流していて、烏江は川湊として栄えました。
ちなみに、烏江という地名の由来も、中国貴州省で南北2つの大きな川が合流する烏江(うこう)という場所と風景がよく似ていたために付いたとされているみたいですね。
現在、牧田川と杭瀬川は分流されており、烏江(からすえ)に烏江(うこう)の面影はあまり残っていませんが、近くを通りがかった際には、二つの大きな川が合流していた昔の烏江の様子も想像してみて下さい。
昭和11年の高田商店街。
2014.01.08
先日、昭和11年(1936)に撮影された高田商店街の写真を見せていただく機会がありました。
高田中町で仕出しを生業としていた家のご主人が亡くなったときのお葬式の様子を撮影したもので、位置関係としては、一番手前に写っている電柱の位置が、中町と西町の境だと思います。
近代の高田商店街の様子が分かる貴重な一枚で、棺の四隅に孫灯籠が写り込んでいたりと、当時の養老町のお葬式の様子を知る上でも、いくつか参考になる点がありました。
ただ、そんな中で、ちょっと気になったのが、左下に写り込んだ喪主の家の前に立てられたしきび(樒)の位置。
隅っこなので、はっきりとは分かりませんが、通りに合わせて立ててあるような気がしますよね。
養老町のお葬式では、しきびは、喪主の玄関口に立てられるのが一般的で、村葬などの場合に、式場の入口に立てられているのは見たことがあるのですが、道の真ん中に立ててあるものは初めてでした。
大きなお葬式のようなので、そのためなんですかね・・
また、機会を見て、高田の方に理由を尋ねてみようと思います。
別庄古墳群の副葬品。
2014.01.07
先日、「郡内古墳発掘物」というメモがついた写真を見る機会に恵まれました。
古墳名は明記されていませんでしたが、添えられていた個人名から、養老町史通史編で、別庄1号墳の東隣にあった円墳から、宅地造成の際に出土したと紹介されている副葬品を撮影したものだと思います。
ちなみに、別庄1号墳とは、現在、象鼻山70号墳とされている古墳のこと。
その東隣の古墳から出土したとされる副葬品の情報は、これまでずっと探し続けていたものだったので、初めて見たときは、とても驚きました。
ただ、町史で直剣(両刃)とされていた副葬品は、ひょっとしたら鉄刀(片刃)なのかもしれませんね。
また、写真の観察だけで、あまり詳しいことは分かりませんが、2振のうち1振には鍔があるようにも見えます。
郡史や町史の記述によると、発掘された別庄古墳群の副葬品には、このほかにも須恵器や朱壺などがあったようなので、引き続き情報収集を続け、象鼻山古墳群の性格を解き明かすのに役立てたいと思います。
きのこワークショップの申し込みを締め切りました。
2014.01.06
新年、あけましておめでとうございます。
今年も当ホームページをよろしくお願いいたします。
さて、養老町広報1月号とともに、回覧で参加者募集した「きのこワークショップ」ですが、参加者が定員に達しましたので、募集を締め切らせていただきました。
多数のご応募ありがとうございました。
山田貞策さんの情報を追加しました。
2013.12.27
鬼面山谷五郎の灯明。
2013.12.26
養老町鷲巣の白山神社の境内に、養老町出身で、岐阜県で唯一の横綱である鬼面山谷五郎が寄進した灯明があります。
文久元年(1861)に、三役に昇進した鬼面山が、故郷である養老町で父親の追善相撲を催した際に、寄附されたものみたいですね。
確か、故郷に戻った鬼面山が、水害で困窮していた鷲巣の住民に十両を配ったという出来事を記録した古文書の年代も、文久元年だったと思います。
根拠となった資料を見たことがないので確かなことは分かりませんが、ひょっとしたら、灯明と十両の寄附は一連の出来事だったのかもしれませんね。
勢至にあったムクノキ。
2013.12.25
養老町勢至には、とても大きなムクノキがありました。
場所は、神明神社東の遊具があるあたりで、大人4人が手を広げてやっと取り囲める大きさだったそうです。
しかし、そんな立派なムクノキも、昭和34年の伊勢湾台風で、人の背の高さほどのところから折れてしまいました。
幹の3分の1ほどが空洞になっていたそうなので、ずいぶん弱っていたのかもしれませんね。
また、この伊勢湾台風での勢至の樹木被害は、ムクノキだけに止まらず、集落の南側を中心にスギやヒノキ、イチョウなどの木にまで及んだそうです。
地元の方によると、岐阜県の天然記念物に指定されている竜泉寺のムクノキよりも大きかったという勢至のムクノキ。
一度、見てみたかったです。
象鼻山の冬至。
2013.12.24
22日の冬至に合わせ、象鼻山の日の出の位置を確認してきました。
観測地点は象鼻山1号墳の後方部で、観測時刻は6時57分です。
手元のコンパスで、古墳の主軸(北北西-南南東)から約30°ほど振った位置からの日の出でしたが・・
これが象鼻山1号墳の諸要素と関係があるかどうかについてはよくわかりませんでした。
来年は、少し観測地点を変えてみる必要がありますかね。
とはいえ、眺望の良い象鼻山から冬至の日の出を見ることができただけでも、十分に早起きした価値はありました。
ヤツデ。
2013.12.20
今日、養老町高田の除川(よげがわ)沿いで、ヤツデを見かけました。
葉が7~9つに切れ込んでいて、手のひらのような形をしていることから、ヤツデと呼ばれていて、日陰に強く、気温や水やりにもあまり気を使わなくてもよい、育てやすい植物みたいですね。
詳しくは分かりませんが、養老町をはじめこのあたりでは家の入口で見かけることが多く、大きな手のような葉が人を招くように見えることから、「先客万来」の縁起を担いで植えられているか、もしくは「テングノウチワ」といった異名が示すように、「魔除け」の意味で植えられているんだと思います。
人によって好みが分かれるみたいですが、ちょうど今が、花が咲く時期なので、少し気にかけてみてください。
船見の神明神社。
2013.12.19
養老町船見には、地元の氏神として、大切にお守りされている神明神社があります。
祭神は、天照大神と豊受姫神で、年に4回、祭礼も行われています。
ただ、どうも、養老町船見の人たちは、明治25年(1892)までは、養老町若宮にある八幡神社を氏神としていたみたいですね。
しかし、この年、新たに多藝村字前田(現在の養老町三神町)から、神明神社をお迎えすることになり、若宮八幡神社からは分離することを決めたようです。
それにしても、 どうして神明神社は、約5kmも離れた船見に遷座することになったんですかね・・
理由はよく分かりませんが、船見は、それまで養老町若宮とともに、八幡神社を約200年間お守りしてきていたので、きっと大きな決断だったでしょうね。
文化財の収蔵設備。
2013.12.18
養老町では、現在、公共施設の一部を改修して、文化財の収蔵スペースを確保するための工事を進めています。
限られた条件の中での実施であるため、収蔵設備に求められる配慮について課題がないわけではありませんが・・
それでも、これまでの養老町の環境を考えれば、大きな前進になると思います。
完成は年が明けてからの予定で、その後には文化財の搬入や整理作業が必要ですが、来年度には、これまでよりも文化財を活用しやすい環境が得られそうです。