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「養老公園タイムトラベル」を追加しました。
2014.02.21
「タギゾウくんの自由研究」のおすすめテーマに、新しく「養老公園タイムトラベル」を追加しました。
これは、開設後の養老公園の変化を、観光などの目的で作られた案内絵図の変化から読み解いていこうという内容です。
観光目的の絵図が中心ですから、中には発行時期を明記していないものもありますが、例えば汽車が描かれていれば、鉄道が開設されてから電車が通るようになるまでの間の絵図であることが分かるので、子どもが一つの課題を追求するテーマとしてはよく条件が整っていると思います。
ぜひ、調べ学習や夏休みの自由研究などの参考にしてみて下さい。
桜井の里。
2014.02.20
養老町桜井の白鳥神社には、ヤマトタケルが休息し、水を汲んで飲んだとされる泉があります。
ちなみに、ヤマトタケルはこの水を「水甘美にして、その味、桜の如し」と評したそうで、桜井の地名もこれに由来しています。
そんな桜井の泉ですが、今まで一度も水が枯れたことがないみたいですね。
さらに、30年ほど前に日照りが続いたときには、村中総出で泉の掃除をし、雨乞いしたところ、雨に恵まれたという話や、泉にはまった子どもが助かったとき、白いひげのおじいさんに助けられたと話したというエピソードなどもあるようです。
また、江戸時代には、田中道麿さんが、「着更きと 春去りくなる名そしるき 花咲き匂ふ桜井の里」という歌も残しています。
境内の北側では、この水が飲めるようになっていることもあり、私も道麿さんに感化されて、2月の桜井の水を飲んでみましたが、ちょっと桜の味は分かりませんでした。
次は花の咲く頃にここを訪れ、桜にヤマトタケルの謎を尋ねてみて、道麿さんの気分を味わってみたいと思います。
鬼頭家墓所の閻魔大王。
2014.02.19
薩摩義士に工事の総本部となる土地建物を提供したことでよく知られている大牧(現在の養老町大巻)の鬼頭兵内ですが、その鬼頭家墓所には閻魔大王の像が置かれています。
ちなみに、兵内の名は子孫代々襲名されており、薩摩義士に協力した兵内は4代目になります。
本名は義雄(よしお)で、西濃風俗志によれば「百姓の氏神」と評されるまでの人物であったみたいですね。
そんな人柄であるため、鬼頭家の墓所に閻魔大王が置かれていても、これまであまり違和感を感じたことはなかったのですが・・
そもそも、どの代の兵内が、どんな目的でこの像を建てたのかさえ、よく分かっていません。
ただ、町内で、墓所に閻魔大王があるのは、たぶんここだけですよね。
引き続き、情報収集を続け、なんとかこの閻魔大王像から4代目兵内の実像を探る手掛かりを得たいと思います。
高林のスキー場。
2014.02.18
最近の聞き取り調査によって、養老山地頂上の三方山付近以外に、養老町高林のパターゴルフ場付近にもスキー場があったことが分かってきました。
運営主体など詳細な情報は得られていませんが、80代半ばの方が、小学校低学年のときに、名古屋から来ていた大学生のスキー板を貸してもらう代わりに、スキー場までスキー板を担いで上がったとおっしゃっていたので、三方山のスキー場が閉鎖された後の昭和10年代くらいの話になると思います。
スキー場の情報が得られはじめた当初は、養老町のスキー場が三方山か高林のどちらにあったのかずいぶん考えましたが・・
結局どちらにもあったんですね。
一見、矛盾があるように思える情報の中にも、事実が含まれていることを改めて認識できました。
この他に、貸しスキーを経営していた人物の情報も得られているので、もうしばらく少ない手掛かりをたどってみたいと思います。
文化遺産ウォーキングが終了しました。
2014.02.17
昨日、2度も延期になっていた文化遺産ウォーキングを無事に終了することができました。
当初の予定より、3ヶ月遅れての開催であったにも関わらず、多くの方々に参加いただき、さらにアンケート調査にも協力いただきました。
ありがとうございます。
今回は、養老の滝に至る「たき道」を中心に、少し寄り道しながら、養老公園に深く関わる文化遺産をご案内させていただきましたが、おおむね好評だったようでほっとしています。
これで、今年度に予定していたニワ里ねっとさんとのイベントは全て無事に終了しました。
来年度以降も、こうした機会を設けていきたいと考えていますので、今後もぜひよろしくお願い致します。
桜井白鳥神社の3本のケヤキ。
2014.02.14
養老町桜井の白鳥神社には、ケヤキの巨木が3本ありました。
このうち、1番大きなケヤキは昭和48年(1973)に養老町の天然記念物に指定され、残りの2本のうち1本も境内で元気に生長しているのですが・・
最後の1本だけは、幹の空洞化が進み、倒壊の危険性が高まってきたため、平成15年頃に切り倒されてしまいました。
ただ、とても立派な木だったため、その後、置物に加工することにしたみたいですね。
ちなみに、下の写真がその置物を撮影したもの。
神社名にある白鳥が描かれていて、直径を測ったところ約1.1mあり、残りの2本はほとんど同じ大きさだったことが分かりました。
切り株は境内に残っていますし、置物も桜井青少年集会所の中に飾られていますので、機会があれば、ご覧になってみてください。
流された橋の木材。
2014.02.13
昭和10~20年代頃、台風で大雨が降り、牧田川に架かる木製橋が流されると、堤防には朝早くから多くの人が集まってきました。
目的は上流から流されてくる木材を引き上げるためです。
どうも、この頃木製橋に使用されていた建築部材は良質なものであり、さらに加工もなされていたため、そのまま建物の修理などに使用することができ、大変貴重であったみたいですね。
朝から早い者勝ちで引き上げていき、持ち帰って畑などに隠したそうです。
ちなみに、この木材競争で有利だったのが、牧田川の北岸の集落でした。
養老町では台風は西から東に抜けていくため、台風が過ぎた後は南風が吹き、流された木材の大半は、北岸に引っかかっていたためです。
上の写真は、そんな競争の激しかった場所の一つである養老町橋爪付近の牧田川北岸を撮影したもの。
このあたりでは、主に広瀬橋が流されてくるのを狙ったみたいですね。
当時の橋爪は、象鼻山を所有しており、他の村に比べて木材には恵まれていたはずですが・・
この話を聞いて、改めて当時の人たちにとって山の資源がいかに重要であったかを感じることができました。
多岐神社の節分祭。
2014.02.12
2月2日の日曜日に、養老町三神町にある多岐神社で、節分祭が行われました。
毎年2月の第1日曜日に実施しているそうで、少なくとも50年くらい前から続いているみたいですね。
拝殿で神事を執り行った後は、開運招福、家内安全を願って、1000袋もの豆がまかれ、参拝者たちは、みんな両手いっぱいに豆を抱えていました。
また、少数ですが、厄払いされている方もいましたね。
そんな、節分祭ですが、現在、私たちが知る範囲では、町内の寺社でこの神事を執り行っているのは多岐神社のみ。
どうして、多岐神社だけがこの神事を行っているのか、次の機会に氏子さんたちに尋ねてみようと思います。
きのこワークショップが終了しました。
2014.02.10
一昨日の土曜日、無事にきのこワークショップが終了しました。
足元の悪い中でしたが、定員一杯の方々にご参加いただきました。
ありがとうございます。
昨年に引き続き、2回目の開催ということで、前回は手間取ったマイタケ菌の接種についても、今年はスムーズに作業を行うことができました。
この調子で、経験を積んでいけば、もう少しですべての作業を自分たちでこなせるようになりそうですね。
また、岐阜県森林文化アカデミーの津田先生に、事前に「きのことは何か」についてお話しいただいたことで、改めて目に見えない菌の活動をイメージしながら作業することの大切さを認識できました。
次の機会には、この部分をもっと重視して、子どもをはじめとする参加者の体験プログラムを考えていきたいと思います。
さて、次のNPO法人ニワ里ねっとさんとのイベントは、天候に恵まれず、2度の延期を経て今週日曜日に開催される文化遺産ウォーキング。
今度は雨天でも決行しますので、申し込みいただいた方は、一応、雨具とてるてる坊主の準備をお願いします。
広幡地区の西脇家文書の調査・整理が進んでいます。
2014.02.07
現在、名古屋大学付属図書館研究開発室では、濃尾地域における歴史資料の保全を目的としたプロジェクトの一環として、養老町広幡地区の西脇家文書の調査と整理が進められています。
ちなみに、西脇家文書とは、高須藩主であった徳永家に仕えた上級家臣の西脇久左衛門を祖とする養老町広幡地区の西脇家に伝わる文書群のこと。養老郡志が一部活用しているものの、これまで歴史資料としての意義や全体像については十分に明らかになっていませんでした。
しかし、今回の調査・整理により、江戸時代後期の資料が中心を占めることのほか、関ヶ原合戦に関わるものや、江戸時代初期の西濃地域の動向を知る上で、貴重な資料も含まれていることが明らかになってきています。
これらの成果の活用については、今後、名古屋大学付属図書館研究開発室と養老町教育委員会が協力して行い、作業が一段落したところで、報告会なども計画していますので、ぜひ楽しみにお待ち下さい。
田中道麿翁の歌碑が建立されました。
2014.02.06
養老町飯ノ木の田中道麿翁顕彰碑の南側に、道麿翁の歌碑が建立されました。
養老町岩道の山口一易さんの寄附に基づくものです。
ちなみに、田中道麿翁とは、養老町飯ノ木の出身で、9歳の頃から歌を詠みはじめ、61歳で亡くなるまで多くの作品を残された国学者。
しかし、これまで一つもそれらの歌を石碑にしたものはありませんでした。
そのため、この石碑は田中道麿翁の歌を刻んだ全国で唯一のものになります。
近くに寄られた際には、ぜひご覧になってみてください。
木造の高田橋。
2014.02.05
昭和29年(1954)にコンクリート製になるまで、高田橋は木造の橋でした。
上の写真は、そんな木造の高田橋が架けられたときの開通式の様子を撮影した貴重な写真。
明治41年(1908)のもので、たくさんの人が見物に来ている様子が伺えますね。
ただ、この木造の高田橋は、その後、台風や豪雨によって何度か押し流されており、明治41年以降も、牧田川に橋が架かっていない時期があったそうです。
そのため、この牧田川を渡って高田中学校へ通学していた生徒さんたちは、服を脱いで河床をわたらなければならないことがあり、大変な思いをすることもあったみたいですね。
男女関係なく、とくに冬は辛かったそうです・・
そんな高田橋ですが、昭和20年代に入ると、水量が多いときには、近くの養老町金屋や直江の人が監視に出て来てくれるようになっていました。
現在も、老人会の方が通学路に立って、児童生徒の安全を見守ってくれていますが、その原形は今から60年以上も前に生まれつつあったんですね。
昭和中頃の象鼻山の木々。
2014.02.04
昭和30~40年頃の象鼻山は、周囲の木々が低く、山頂に上がると周りがとてもよく見わたせました。
そのため、家族みんなで山に登り、山頂でお弁当を広げる風景がよく見られたそうです。
また、木々の数も多くなく、子どもの頃の記憶では、草だらけの細い道を走って登ったみたいですね。
上の写真は、そんな当時の象鼻山の眺望と、木々の様子がよくわかる貴重な写真。
詳細な地点は分かりませんが、昔の登山道も東から西に向かっていたので、山頂近くで北西から撮影されたものだと思います。
奥に写っているのは、橋爪付近でしょうね。
それにしても、こうして、人の写り込んだ写真で比較すると、改めて当時の松の大きさがそれほどではなかったことや、スギやヒノキのような高木がなかったことが分かりますね。
何もかも昔が良いというわけではないでしょうが、この山頂の眺望だけは、現在の象鼻山に取り戻したいです。
浄誓寺のワビスケ。
2014.02.03
養老町石畑の浄誓寺で、ワビスケ(侘助)が花を咲かせはじめました。
ワビスケ(侘助)とは、椿の一種で、門のそばのイヌマキとともに、養老町の天然記念物に指定されている古木。
どちらも、安政4年(1857)の本堂焼亡に耐えて、現在に残りました。
まだ、咲きはじめたばかりで、3月末頃までは見頃がつづくと思いますので、ぜひご覧になってみて下さい。
ただ、境内なので、マナーは守ってくださいね。
養老小唄。
2014.01.31
先日、「養老小唄」の歌詞カードを見つけました。
作られたのは昭和5年(1930)1月で、作詞を担当したのは、「シャボン玉」や「証城寺の狸囃子」などで知られる野口雨情(のぐちうじょう)です。
詳しいことは分かりませんが、作成の経緯が少しだけ町史に触れられていて、それによると、昭和4年(1929)11月に羽島市の糸井川益一さんに、野口雨情さんと藤井清水さんのお二人をご紹介いただいたみたいですね。
その後、養老保勝会が、ずいぶんとその普及にも努めたようです。
ただ、少し心当たりを尋ねてみても、今の養老町に、この養老小唄を踊って歌える人は見つかりませんでした。
この歌詞カードのデータを「タギゾウくんの収蔵庫」に保管しておきますので、もし歌える方がおられましたら、ぜひ情報提供をお願いします。
愛宕神社の雲龍図。
2014.01.30
養老町高田の愛宕神社拝殿の天井には、とても迫力のある雲龍図があります。
これは江戸時代の養老町を代表する画家の一人である日比野鶴翁(ひびのかくおう)が描いたもの。
愛宕神社は火伏せの神であるため、水を呼ぶ龍の絵を描いたみたいですね。
ちなみに、描かれたのは弘化元年(1844)頃。
元は一枚絵でしたが、後の修復で4つ切りになってしまいました。
普段は見ることができませんが、本当に雨を降らせそうな迫力をもっているので、高田祭りなどの機会を捉えて、ぜひ自分の目でご覧になってみてください。
北原白秋歌碑。
2014.01.29
養老公園の養老神社鳥居そばに、北原白秋の歌碑が建てられています。
これは、昭和2(1927)年8月に、北原白秋が養老公園を訪れたときに詠まれた歌を刻んだもので、昭和55(1980)年に建碑されました。
ちなみに、北原白秋が養老公園を訪れた理由は、日本新八景選定の審査を行うため。
どうも、昭和2年(1927)4月に大阪毎日新聞社と東京日々新聞社が「日本新八景」選定を行うと発表したのに伴い、養老保勝会が、養老の滝の瀑布の部での上位入賞を目指して、投票運動を行っていたみたいですね。
白秋の養老滞在は、ご子息を伴ってのもので、豆馬亭に3泊されたそうです。
結果、養老の滝は、日本新八景の選には漏れたものの、日本二十五勝には選定され、この運動は一定の成果を得ました。
ただ、ここで少し気になるのが、石碑に刻まれている歌が「紫蘭さいて いささか紅き 石のくま 目に見えてすずし 夏去りにけり」であること。
養老町で、紫蘭(しらん)をよく見かけるのは6月頃ですが、どんな理由があったんですかね。
大野の初地蔵。
2014.01.28
養老町には、地蔵盆だけでなく、初地蔵も行う地区がいくつかあります。
養老町大野も、そうした地区の一つで、先週の金曜日の夜7時から初地蔵が行われました。
ちなみに、初地蔵(はつじぞう)というのは、お地蔵さまにゆかりがある24日を、1年で最初に迎える1月24日に行う地蔵祭のことで、お盆の月である8月の24日に行う地蔵祭が地蔵盆です。
それほど長い時間ではありませんでしたが、提灯を飾り付けた一夜地蔵の前では、覚林寺のご住職により阿弥陀経が唱えられ、大野の人たちは一年間を健康に過ごせるようにお祈りされていました。
ただ、集まった方々の中に子どもの姿はなく、夏の地蔵盆で見かけるような子どもにお菓子を渡す風景を見ることはできませんでした。
お菓子は用意されていましたが、冬の寒い夜ではちょっとお参りしにくいですかね。
こうした初地蔵は、大野の他にも、養老町田や瑞穂などで行われているそうなので、来年以降も1年に1つずつおじゃまして、地区ごとでの違いなども引き続き調べてみたいと思います。
下笠輪中と根古地輪中の境。
2014.01.27
養老町大野と根古地の大字の境には、下笠輪中と根古地輪中を分けた堤防の一部が残っています。
ということは、大野と根古地の境は、江戸時代から現在まで変化していないということですよね。
ただ、近所の方によると、昔の輪中堤は、現在よりもずっと高く、堤上には水屋などがあって、今とはずいぶん様子が違っていたそうです。
しかしそれでも、昭和34年(1959)の集中豪雨と伊勢湾台風後に、大野の集落の8割ほどが移転したことや、土地改良が実施されたことを考えれば、この輪中堤付近は、まだ昔の雰囲気がよく残っていると思います。
近くに寄られた際には、ぜひ散策していってみて下さい。
第30回新春茶会。
2014.01.24
1月19日の日曜日に、養老町中央公民館で、養老町茶華道協会による新春茶会が開催されました。
今年度は、ちょうど協会創立30周年にあたり、新春茶会も30回目を迎えたそうです。
おめでとうございます。
節目の年ということで、協会の成り立ちなど、これまでのお話を伺っていたところ、もともと町の華道展に参加していた華道各流派の代表のほとんどに茶道の心得もあったことから、このメンバーを中心にお茶会を開いたことが創立のきっかけで、当初は20名ほどの会員数で発足したことを教えていただきました。
ちなみに、参加した茶道の流派は、表千家、裏千家、藪内(やぶのうち)流、松尾流、江戸千家の5つだったみたいですね。
現在の新春茶会は、このうち表千家、裏千家、松尾流が順番に席を設けており、今年は、裏千家による立礼(りゅうれい)式の席と、表千家による炉を切った席の二席が設けられていました。
来年は松尾流の席も設けられるそうです。
今年はいろいろと不作法をしたので、次までにもう少し作法を身につけておきたいと思います!