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「室原曳軕歌舞伎」の公開。
2014.03.24
当ホームページの電子書庫のコーナーに、新しく「室原曳軕歌舞伎」のPDFデータを公開しました。
これは、養老町の室原地区が、平成6年に、養老町制40周年を記念して、1度だけ、室原祭曳軕子供歌舞伎を復活させた際に、あわせて作成した冊子で、曳軕のことだけでなく、室原地区全体の歴史についても触れられています。
協賛企業の広告が多くて、少し読みにくくなっているところがありますが、室原地区が、地元の祭りのために一致団結して作成した貴重な冊子なので、ぜひ、目を通してみてください。
篠塚神社の堀。
2014.03.20
先日、享保5年(1720)のものとされる橋爪村屋敷絵図の中に、周囲に堀を巡らせた篠塚神社を見つけました。
篠塚神社は、もともと象鼻山の麓にありましたが、寛文5年(1665)に起きた「ヤロカの大水」と呼ばれる大洪水で、ご神体が流出し、流れ着いた場所が現在地であったとされている神社。
ひょっとしたら、そんな新天地は、城跡であったのかもしれませんね・・
千歳楼が国登録文化財に。
2014.03.19
昨日、国の登録有形文化財(建造物)についての答申が行われ、養老公園の老舗旅館である「千歳楼(せんざいろう)」が、国登録文化財になる見通しとなりました。
これで、養老町の国登録文化財は、高田の玉泉堂酒造に続き、2カ所目となります。
ちなみに、登録文化財制度というのは、重要文化財指定制度よりも緩やかな規制のもとで、幅広く文化財の保護を図るために生み出された仕組み。
建造物では、築後50年を経過しており、さらに国土の歴史的景観に寄与しているかどうかなどが基準となります。
千歳楼では、明治・大正・昭和の各時代の建物が、それぞれに意匠に富んだ上質な近代和風建築であることが決め手になったと思います。
大正天皇(嘉仁親王)をはじめ、三条実美や横山大観、谷崎潤一郎、竹内栖鳳など多くの文化人に愛されてきた千歳楼。
その建物が、これからも長く、多くの方々をお迎えしていくための環境が整いつつあることを、とてもうれしく思います。
池辺小学校100周年。
2014.03.18
先日、昭和48年(1973)に、旧池辺小学校が100周年を記念して撮影した航空写真を見る機会がありました。
ただ、養老町瑞穂に旧池辺小学校の新校舎が建てられたのは明治31年(1898)のことで、その後、養老町大巻の池辺小学校に移ったのが昭和58年(1983)なので、その期間だけを考えると、旧池辺小学校だけでは100年も経過していませんよね・・
そのため、明治6年(1873)が池辺小学校にとってどういった年にあたるのかを確認したところ、明治5年(1872)の学制頒布に伴い、養老町大巻の智通寺に璞玉義校がつくられた年であることを知りました。
つまり、池辺小学校の端緒となった璞玉義校が創られてから100周年を記念して、航空写真の撮影を行ったということみたいですね。
ちなみに、璞玉(はくぎょく)とは、磨かれるのを待つ玉のこと。
池辺の最初の学校に、ぴったりの名称だと思いました。
土製の双孔円盤。
2014.03.17
養老町宇田の日吉遺跡からは、双孔円盤(そうこうえんばん)と呼ばれる遺物が出土しています。
これは、名前のとおり、円盤に二つの穴をあけたものなんですが・・
その用途は明らかになっていません。
どちらかといえば、祭祀用具など、実用的ではない用途が想像されているみたいですね。
そんな双孔円盤ですが、一般的には石製のものが多い中で、日吉遺跡のものは土製。
それも、元々は土器として利用されていたものの再利用です。
このことに、どのような意味があるのか・・
引き続き、地道に調べていきたいと思います。
鐘の供出。
2014.03.14
先日、戦中の金属不足を補うために、お寺の鐘が並んで運ばれていく様子を撮影した写真をみる機会がありました。
撮影された日時はよく分かっていませんが、終戦間近のもので、場所は美濃高田駅前の通りだと思います。
金属の供出については、これまでにもいろいろとお話を聞く機会がありましたが、運ばれていく様子にまで話が及ぶことはなかったので、この写真を見るまでは、こんな行列をつくっていたとは思いませんでした。
美濃高田駅に向かって運ばれているので、この後は電車に乗せられたんでしょうね。
あと、ちょっと気になったのが、手前に写り込んだ人たちに笑顔が見られること。
養老町押越で伺った話では、鐘も半鐘も、二つとも持って行かれてしまい、子供にも分かるほど、悲しい出来事であったとおっしゃっていたので、少しだけ違和感が残りました。
西岩道青少年集会所。
2014.03.13
私が住む養老町西岩道に青少年集会所ができたのは昭和53年1月のことでした。
それまで、西岩道の寄り合いや子ども会のイベントはお寺で行われていましたが、これ以降は、すべて集会所が利用されています。
養老町全体に、青少年集会所が整備されるようになったのも、昭和40年代半ば頃からのことで、西岩道もこうした流れの中で、集会所が整備されたんでしょうね。
ちなみに、集会所ができた当時、一番印象的だったのが、冬の暖かさ。
お堂は冬の寒さが身にしみますよね・・
土屋写真館の広告。
2014.03.12
先日、土屋ちかさんが経営していた写真館の広告を見る機会に恵まれました。
ちなみに、土屋ちかさんとは、養老町高田出身の日本画家である土屋輝雄さんのおばにあたる方で、土屋輝雄さんの母代わりでもあった人物。
大正から昭和の初め頃の、まだ写真が珍しい時期に、写真屋の女主人を務めたことからも分かるように、たいへんな女傑であったみたいですね。
また、ハイカラで、馬に乗っていたという話も残っています。
そんな武勇伝の多いちかさんですが、私もこの広告に数百年以上の耐久性があるというプラチナプリントが含まれているのをみて、改めて、土屋ちかさんが評判どおりの人物であっただろうと思えるようになりました。
杭瀬川に流される前の分流記念碑。
2014.03.11
先日、牧田川と杭瀬川の中堤を撮影した写真を見つけました。
正確な撮影年代は不明ですが、牧田川・杭瀬川分流記念碑が写り込んでいるので、昭和51年(1976)の中堤決壊以前に撮影されたものでしょうね。
現在の分流記念碑が、昭和51年の中堤決壊で一度杭瀬川の川底に沈み、後になって引き上げられたものだという話は何度か聞いていましたが、決壊前の分流記念碑の正確な元位置を把握できていなかったので、大変参考になりました。
日吉遺跡のガラス玉。
2014.03.10
日吉遺跡からは、直径3mmほどの糸通しの穴があいたガラス玉が発見されています。
見つかった場所は、弥生時代の終わり頃の竪穴建物の床面。
とても小さなものなので、危うく見過ごすところでした。
そんなガラス玉ですが、本来の用途は複数に糸を通して使用するアクセサリー。
そのため、周辺も丁寧に探してみたのですが・・
結局、見つかったのは、この1点のみでした。
弥生時代のガラス玉は大変貴重なものなので、1つだけでも何か意味はあったかもしれませんが、見つけたときの第一印象は「失くしちゃったんだろうな」でした。
福源寺の子持ち地蔵。
2014.03.07
養老町室原の福源寺の墓地には、たくさんのお地蔵さまがいます。
そのほとんどは、養老町でよく見かけるような手を合わせたお姿をしているのですが・・
そのうち1体だけ、両手で赤ちゃん抱きかかえているものがあります。
これまでに、養老町で確認できていた同じお姿のお地蔵さまは、押越の永丘寺跡の子安地蔵だけで、そちらも詳しい由来が分かっていなかったため、室原でもご近所に少しお話を伺ってみたのですが・・
こちらも、あまり詳しいことは分かりませんでした。
赤ちゃんを抱いたお姿のお地蔵さま、いったい、どんな思いが込められているのでしょうね。
立岩の横の洞穴。
2014.03.06
言い伝えですが、勢至の立岩の横に洞穴があり、「やまなかおろく」という大泥棒が住んでいたという話があることを知りました。
勢至の立岩については、一昨年の11月に現地確認を行っていて、その際に周辺も確認したつもりだったんですが・・
ひょっとしたら、見落としたかもしれません。
養老町沢田に伝わる話のようなので、そこでもう少し情報収集をして、次に立岩を訪れる際には、前回よりも探索範囲を広げてみようと思います。
橋爪3番堤。
2014.03.05
一昔前の養老町橋爪の牧田川堤防は、4つの霞堤からなっていて、西から順番に橋爪1~4番堤と名付けられていました。
上の写真は、そんな橋爪村の絵図に描かれた1~4番堤を撮影したもの。
写真では、ちょっと4番堤が切れてしまっていますが、明治5年(1872)のもので、当時の堤防の位置関係がとてもよくわかりますよね。
ただ、この絵図をはじめて見たときに、少しショックだったのが、象鼻山の鼻の本当の名前が「橋爪3番堤」であることがはっきりしてしまったこと。
うすうす気付いていましたが、象鼻山古墳群の時代に、象鼻山に鼻はなかったんですね・・
橋爪の高札場。
2014.03.04
安政5年(1858)の橋爪村屋敷図を写した絵図の中に高札場を見つけました。
ちなみに、高札場とは、幕府などが定めた法令を木板に書き、掲げておく場所のこと。
人目につきやすい所に設置されることが多いため、村の中心部や往来が多かった場所を考える上で参考になりますよね。
ちなみに、位置は、念長寺から約60mほど東の地点でした。
養老町橋爪は、江戸時代からの地割りがとてもよく残っており、これだけで十分に位置が特定できるので、今度は現地で情報収集を行いたいと思います。
吹原家が寄進した鳥居。
2014.03.03
濃州三湊の一つである烏江湊で、代々舟問屋を務め、大きな経済力を誇ったとされる吹原家ですが、最近、隣町である垂井町の南宮大社に石鳥居を寄進したのが、この吹原家であるという話を聞くことができました。
ただ、町史などには記述されていない話だったので、その由縁を確認してみたところ、どうも石鳥居に吹原の名が刻まれていることがその根拠になっているみたいですね。
そのため、早速、先週の休みを利用して、現地を確認してきたのですが・・
どこに刻まれているのかよく分かりませんでした。
今度は、情報提供者に同行いただいて、再チャレンジしたいと思います。
釘さし。
2014.02.28
昭和20~30年代くらいの養老町には、「釘さし」という遊びがありました。
その名の通り、釘を使った遊びで、二人以上であれば何人でも遊べるのが特徴です。
ルールは、順番に地面にささるように釘を投げていき、自分の釘がささった場所から次にささった場所へと軌跡が分かるよう線を引く。そして、自分の釘が他の誰かの釘の軌跡によって出られなくなったり、誰かの軌跡を横切ってしまったら負けというものです。
ただ、人から話を聞くだけでは、いまいちよく分からないところがあったので、実際にやってみたところ・・
思っていたよりも、頭脳プレーが要求される遊びであることが分かりました。
また、釘を刺すのに、ちょっとしたコツが必要ですね。
ちなみに、テストでは五寸釘を使いましたが、その頃の釘は貴重品で、主に二寸釘を使っていたみたいです。
また、年下の子どもには、投げずに釘を刺してよいといった特別ルールもあったようですね。
釘を使うため、全く危険がないわけではありませんが、昔もこれでケガをするような子はいなかったそうなので、少し柔らかい地面がある庭先などでぜひ試してみて下さい。
3~4人くらいの人数で遊ぶのが、ちょうど良いかと思います。
茶園原堤の位置。
2014.02.27
明治時代頃、南牧田川の養老町五日市付近の南堤防は霞堤になっていて、連続していませんでした。
この不連続部分付近の一部の通称が茶園原になります。
町史によると、この付近には、長さ48間(約87m)の茶園原堤という牧田川の請堤防があり、明治20年(1887)には、牧田川請茶園原堤防組合連合村会という行政区域の枠を超えて水利工事や整備を行うことができる組織も結成されたみたいなんですが・・
この堤防の正確な位置がよく分かりません。
昭和46年(1971)の土地改良事業までは、堤の一部と大きな池が残っていたようなので、この情報を頼りに、もう少しその跡を探してみたいと思います。
中世石塔の未製品。
2014.02.26
養老山地やその山麓付近には、中世の石塔がたくさん散乱しています。
これらは、養老町の中世社会を考える上で、貴重な手がかりになるものなんですが・・
土地所有者に発見されると、神社やお寺に持ち込まれることが多いですよね。
そのため、山麓部にはいくつか石塔の集積地点ができあがっています。
上の写真は、そんな集積地点の一つで、完成品と未完成品を横並びで撮影したもの。
最近、養老町に分布する中世の石塔には、未完成のものも多く含まれていることが分かってきていて、中世の養老町で石塔作りをしていた可能性が指摘されるようになっています。
ただ、その素材の多くを占める砂岩が養老町域の養老山地では採取できないことや、石材が産出地でどの程度まで加工されるのかが分からないといった課題が残されているため、まだ確かなことは分かっていません。
こうした中世石塔の研究に携わる方はそれほど多くなく、地道に研究が進められるのを待たなければなりませんが、また新しい発見があれば、当ホームページでもご紹介していきたいと思います。
かえる岩。
2014.02.25
先日、赤岩神社の奥之院にある大きな赤岩の正しい名が「かえる岩」であることを知りました。
それで、赤岩神社には石製や陶製のカエルがたくさん置かれているんですね。
ただ、赤岩そのものに纏わる伝説は、養老山地の急斜面に、山の主であるオスとメスの龍が住む小さな池があったが、大地震による土砂で埋没してしまい、2頭の龍は赤岩に化身したというもの。
カエルはでてきません・・
引き続き、情報収集を続け、なぜ龍の化身がかえる岩と呼ばれるようになったのか理由をつきとめたいと思います。
白石薬師堂。
2014.02.24
養老町の白石区が移転する前の元位置には、白石薬師堂が残っています。
建立された年代は不明ですが、地元では15世紀末~16世紀初頭くらいに造られたのではないかと考えられています。
白石村は、永正元年(1504)に養老神社の社殿を造営しているので、その頃には村造りも落ち着いていただろうという推測が一つの目安になっているんでしょうね。
そんな約500年もの歴史をもつ白石薬師堂ですが、残念なことにご本尊の薬師如来像は大正初期に盗難にあってしまい、現在は座像蓮台の石仏が代わりにお祀りされています。
ただ、この他にも寛文12年(1672)の銘をもつ瓦器質の狛犬や石塔物などが納められているようなので、厨子が開かれる10月の第3日曜日の薬師祭りにもう一度おじゃまし、白石村のルーツを辿れそうな手掛かりを探してみたいと思います。