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象鼻山のサヌカイト製旧石器。
2012.03.12
古墳でよく知られる象鼻山古墳群ですが、発掘調査では、古墳時代以前の遺物もたくさん出土しています。
中でも、特に数が多いのが旧石器時代に属する石器。
墳墓群築造工事で土ごと移動されてはいますが、いろいろな場所から見つかっています。
左の画像は、そんな象鼻山古墳群から出土した片刃のナイフ。
サヌカイトと呼ばれる安山岩の一種で作られていて、国府(こう)型ナイフ形石器と呼ばれています。
気になるのは、このサヌカイトと呼ばれる石材を採取できる場所が限られていること。
一番近い場所でも、奈良県ですよね。
このあたりでもチャートと呼ばれる石器石材は採れるので、何か理由があるのでしょうが、ちょっとよく分かりません・・
ただ、昨年度の調査でも、同じくらい風化したサヌカイト製の石器が出土しています。
これを手掛かりに、新しい事実を突き止めたいところです。
日吉遺跡の不思議な遺物。
2012.02.07
養老町の日吉遺跡では、何に使ったのか分からない不思議なものがたくさん出土しています。
上の写真は、そんなものの一つで、紋様と赤彩を施した3cmくらいの土製品。
すぐに色褪せてしまいましたが、出土したときは、赤く光っていました。
気になるのは、その紋様と赤彩の構成。
下の画像のようなパレス壺のものとよく似ていますよね。口縁部もとれてしまっているだけで、あったかもしれません。
そのため、このことがこの遺物の性格を解明する手掛かりにならないかとも思いましたが・・
いまいちよくわかりません。
工事に伴う立会調査で出土したこともあり、出土地点の情報も乏しいです。
とりあえず、ひきつづき情報を収集したいと思います。
朱付着土器。
2012.01.20
先々週紹介した「転用された土器」ですが、そうではなく、本来の形のまま使用された可能性があることが分かりました。
水銀朱の水溶液化に使用された可能性です。
ちょっと専門的になりますが・・
土器や木製品などに水銀朱を塗布するには、これを水溶液化する必要があり、常温では溶けにくいので煮沸します。
上の写真の土器は、高杯(たかつき)の脚部になりますが、よくみると外面に煤が付着しており、このことが用途を推定する根拠の一つになっています。
割れ口に付いた朱についても、粘土紐の継ぎ目に朱がしみこむ事例が、他にあるみたいですね。
ただ、こうした朱の精製に使用される器種は、高杯よりも鉢の方が一般的なようです。
とりあえず、次の段階として、この赤色顔料が水銀朱かどうかを確認する必要がありそうです。
転用された土器。
2012.01.05
弥生時代後期から古墳時代初頭の遺跡を調査していると、赤い顔料で飾った土器に出会うことがあります。
そうした赤色顔料が塗られた土器は、養老町を含む東海地方では、パレススタイル土器と呼ばれていて、それほど珍しくもないのですが、日吉遺跡で出土した上の写真の土器は、それとはちょっと様子が違いました。
色が薄くて分かりにくいですが、よく見ると、頭のあたりだけ赤い顔料が付着していて、さらに割れ口まで赤くなっているのが分かります。
土器が割れてしまった後に、赤い顔料が付いたということですよね。
おそらく、割れて器としては使用できなくなった土器を、赤色顔料用の道具か何かに使い回した結果、本来付着するはずのない割れ口に赤い顔料が付いたのだと思います。
ただ、どうしてわざわざ壊れている土器を使うのか、他にそれ専用の道具は無かったのかなど、いろいろと気になる点があります。
想像は膨らみますが・・
よくわかりません。
竜泉寺の入口。
2011.10.31
養老町教育委員会が進めている中世山岳寺院「竜泉寺」の測量・分布調査ですが、現在までに約37,000㎡を終了することができました。
遺物も1,500片を越える数が採集できています。
そのため、現状を把握し、残りの作業量を算出することを目的として、終了した範囲を図化したものを、都市計画図上に重ねてみたのですが・・
その結果、寺院跡の中心を走る直線道路が、そのまま現在の道につながる可能性が高いことが、浮かび上がってきました。
入口もたぶん・・
この推定が間違ってなければ、竜泉寺の直線道路は、水平距離で500mを測り、そのほとんどが現存していることになります。
ただ、この図を見たときは、得られた成果よりも、残りの作業量に呆然としてしまいました。
まだ、半分も終わっていなかったようです・・
田んぼの土のすき取り。
2011.10.17
様々な開発行為に伴う、遺跡の試掘調査にいくと、田んぼを埋めて宅地造成したにもかかわらず、造成土の下に、田んぼの土が見当たらないことがあります。
宅地造成の盛土を行う前に、耕作土をすき取ったということですよね。
こうしたことは、軟弱な地盤の除去や、広範囲にわたる土地開発の結果を示すことが多いような気がしていましたが・・
調査を手伝っていただいた重機のオペレーターさんによると、一昔前は食べ物を作っていた土を埋め殺すことに抵抗を感じ、畑に土を移したり、粘土の力で屋根瓦を固定する工法に再利用されることもよくあったそうです。
壁土にも使えたみたいですね。
最近では、屋根瓦の固定や壁土に、田んぼの土が利用されることは少ないのでしょうが・・
地下に眠っていた土層に、養老町の人たちの、田んぼに対する特別な思いを感じることができました。
絵画土器のかけら。
2011.08.11
遺跡の発掘調査をしていると、ときどき絵が描かれた遺物に出会うことがあります。
上の写真はそんな一つで、日吉遺跡でみつかった土器のかけらです。
よく見ると、土器の表面に線刻が残されていますよね。
土器にヘラのようなもので、何かを描いたということだと思います。
ただ、これだけでは何を描いたのかよく分からなかったので、同じような土器のかけらを集めて、くっつかないかを試してみたのですが・・
あんまりうまくいきませんでした。
当時の人が残した絵画は、その時代を解き明かす重要な手掛かりになるのでがっかりです・・
養老町勢至の鉄くず。
2011.07.22
養老町勢至(せいし)には、鍛治屋町という小字があり、その周辺では製鉄時にでる鉄くずを採集することができます。
中世の勢至には鉄座があったので、中世の遺物でまず間違いないのですが、その採集地点が中世山岳寺院である勢至寺の寺域内であることが気になっています。
勢至寺が足利義満の知行状を紛失し、領地証明の再発行を受けたのが応永27年(1420)。
勢至の鉄座の文字資料は16世紀が中心なので、時期の問題もあるのですが・・
過去に行った柏尾廃寺跡や、現在進めている竜泉寺廃寺跡の測量・分布調査でも、中心部からやや離れた位置に鉄くずを採集できる地点を確認できています。
当時はゴミとして処分された鉄くずですが、これが養老町の中世を探る重要な手掛かりになりそうな気がします。
日吉遺跡で出土した手焙形土器。
2011.06.22
上の写真は、日吉遺跡で出土した手焙形土器(てあぶりがたどき)です。
ちょっと変わった名称は外見から付けられたもので、使用方法は明らかになっていません。
内面にススが付着している例があることや、お墓でよく見つかることが、その性格を解明する手掛かりになりそうなのですが・・
この手焙形土器の内面に、ススの痕跡はありませんでした。
試掘調査で出土したので、遺構との関係も不明瞭です・・
出土例もそれほど多くなく、謎の多い遺物です。
竜泉寺廃寺跡の採集遺物。
2011.06.21
養老町教育委員会では、今年度も引き続き竜泉寺廃寺跡の測量・分布調査を実施しています。
この調査では、地形測量と併行して、作業中に発見した遺物の採集も行っているのですが、最近になって、ようやく採集遺物点数が1,000点を越えました。
調査を開始した当初は、ほとんど遺物を採集できていなかったのでほっとしています。
竜泉寺廃寺跡の測量・分布調査を開始した当初は、堂塔地区の可能性が高い標高180m付近を調査していました。
これに対し、最近は標高100m以下の平坦面にまで調査が及んできていることが採集遺物点数の増加につながったようです。
結果がでれば、ごく自然なことに感じますが・・ つまりは麓に近い方が遺物量が増えるということですかね。
いずれにせよ、竜泉寺廃寺跡の性格を解明するための基礎データが整いつつあるのは間違いありません。
時期や器種を判断できる遺物も多く、組成や分布を分析するのが楽しみです。
土器の割れ口から・・・。
2011.06.10
昨日、日吉遺跡で出土した土器の割れ口から、糸のような物が出ていることに気づきました。
器種は甕で、弥生時代から古墳時代へ移り変わるころのものです。
当初は、整理時に誤ってくっついたのかなと思いましたが・・
どうやら土器の胎土中から延びているようです。
ただ、破損するのが怖くて、触っては確認していません。
色はやや青みがかっていて、撚りがかかっているように見えます。
土器を作るときにに誤って混入した物が、たまたま割れ口から顔をのぞかせたということでしょうか・・
考古学では、こうした朽ちやすい遺物と出会うことは珍しいので、びっくりしました。
土器の胎土中からというのも、ちょっと聞かないですよね。
間違いでなければ重要な発見になりそうです。
当時の養老町の人は、青みがかった衣服を身につけていたのかなぁ・・
薬師山遺跡。
2011.06.06
薬師山遺跡(やくしやまいせき)は、養老山地に所在する中世の遺跡で、小倉谷の南側、標高110~220mの山地及び下位段丘面に立地しています。
多芸七坊の一つである光明寺跡に比定されており、立地や地形、採集遺物からも中世寺院跡である可能性が高いです。ただ、本当に寺院跡であるかどうかや、その名称などについて、証明が十分になされていないため、現状では薬師山遺跡と呼んでいます。
この薬師山遺跡には、いくつか興味深い点があり、その一つが遺跡範囲のほとんどが養老町鷲巣(わしのす)の飛地になっていることです。
養老町鷲巣は、小倉谷を中心に発達した扇状地の端に立地する村で、多藝郡にあって一時期本巣郡の飛地になっていた不思議なところ。
地元には白山太鼓が伝承されており、地名の由来にも白山信仰との関係が伺えます。
まだまだ、情報は少ないですが、美濃の白山信仰を考える手掛かりが、ここにありそうな気がします。
36号墳の器台。
2011.06.03
上の写真は、象鼻山36号墳の周溝から出土した土器です。
上部に器をのせて使うもので、器台という器種になります。
真ん中に穴が空いているので、分かりやすいですよね。
この器台、口縁部を中心にいくらか欠損していますが、中空部分の径の大きさや裾部の形態から、廻間Ⅰ式の中でもかなり古い方に属すると判断できます。
そしてこのことは、山頂から離れた位置にある36号墳が、山頂の墳墓群とほぼ同時期に築造された可能性が高いことを示しています。
詳細な検討はこれからになりますが、どうやら象鼻山古墳群の調査成果は、養老町の歴史を明らかにする上で重要な情報を提供することになりそうです。
ただ、この課題に取り組む前に、日吉遺跡の発掘調査成果をまとめ、この地域の土器様相をもう少し明らかにしておく必要があるでしょうね・・
象鼻山シンポを開催しました。
2011.02.14
平成23年2月11日(金・祝)に、養老町民会館で象鼻山古墳群シンポジウムを開催しました。
足もとの悪い中、たくさんの方にご参加いただき、あらためて感謝申し上げます。
先生方の明快な議論で、たくさんの方と、象鼻山の歴史的意義を共有できたような気がします。
当日講師を務めていただいた3人の先生は、恩師の宇野先生をはじめ、学生の頃から憧れていた人達ばかり。
私にとっては、夢のような時間でした・・
福地神社御旧址。
2011.01.13
養老町栗笠にある福地(ふくち)神社から南600mの位置に、写真の福地神社御旧址と刻まれた石碑があります。
これにより、現在の養老町栗笠は、元はこの石碑の位置にあり、後に北へ移動したと考えられています。
このことについては、考古学からの成果もあり、この石碑附近でたくさんの中世遺物が採集され、13世紀にはこの辺りに村があったことが確認できました。
ただ、この村の名が「くりがさ」であったかは明らかにできていません。
この他、栗笠には福地の遺命から、この一帯を倭名類聚抄に記載された「冨上郷」に比定する意見もありますが、この付近で古代に遡る遺物は確認されておらず、これは難しいかもしれませんね。
きょう象鼻山でキツネを見かけた人がいるそうです。見間違いでないなら、この幸運が次に訪れるのが、ぼくであることを願うばかりです。
カメラは手放せませんね。
象鼻山発掘状況23
2010.12.22
年の瀬が近づく中、ようやく象鼻山36号墳の平面検出が終了しつつあります。
写真は、36号墳北側の調査区の全景で、右側が墳丘の表面です。
弥生時代の墳墓と古墳時代の墳墓の違いとして、墳丘の高さがよく問題になりますが・・この36号墳はかなり高い気がします。
詳細な検討は整理が始まってからですが、象鼻山の墳墓群は弥生~古墳時代への移行期を考える上で様々な情報を提供できそうです。
象鼻山古墳群の見学者。
2010.10.29
今日は、養老町文化財保護協会をはじめ、静岡や京都から象鼻山古墳群への見学者がありました。
今日の見学者には、象鼻山に登るのが初めての方もいらっしゃいましたが、楽しんでいただけたでしょうか。
私としては、室内で説明させていただくより、現地のほうがこの遺跡のよさが伝わるのではないかと思っています。
やりとりのなかでは、お墓の形の違いについて、多くの質問をいただきましたが・・
調査が進むにつれ、この問題は難しさを増していってる気がしています。
当初から取り組んできた課題ではあるのですが、
お葬式の方法や、お墓の作り方、お墓を作る場所などが、お墓の形とは関係ないことが明らかになっていっているような、そんな感じです・・
お墓の形には絶対意味があるはずなんですが・・ なかなか見えてきません。
象鼻山でみつかる旧石器。
2010.10.08
象鼻山古墳群の発掘調査では、古墳時代の遺物の他に、旧石器時代の遺物も出てきます。
写真の石は、後期旧石器時代の石器で、石器の素材を剥がし取った後の母石です。14号墳の墳頂から2m下の地点、岩盤層のすぐ上から出土しました。
このことにより、かつて象鼻山の山頂では旧石器時代の人達が石器を作っていたことや、14号墳の墳丘が2m以上盛土して形成された可能性が高いことなどが分かります。
古墳が有名な象鼻山ですが、それよりずっと前から、人間の活動の舞台となっていたようです。
ただ、象鼻山の山頂部に石器の石材は産出せず、水もありません。旧石器時代の人がなぜこの場所で石器を作ることにしたのか、とても気になるところです・・
貝輪形土製品。
2010.07.14
養老町の日吉遺跡では、貝のブレスレットを、粘土でまねてつくった貝輪形土製品(かいわがたどせいひん)の一部が出土しています。
どうも弥生時代の人達は、貝製のブレスレットに特別な思いをもっていたようで、当時は特別な人だけが使用していたようです。
この貝輪への思いは、古墳時代にも引き継がれますが、時代の移り変わりの中で、材質を貝から貴重な石などに変え、腕にはめるには適さない形に変化していきます。
写真の貝輪形土製品も、腕にはめるには適さない形をしており、材料は粘土、さらに仕上げで赤い顔料が塗られています。
そのため、この資料は弥生時代から古墳時代へと変わっていく中で、当時の人達が貝輪にどのような思いを込めていたのかを知る重要な手がかりになりそうです。
少なくとも、ただのアクセサリーではないですよね・・
発掘調査の安全祈願。
2010.07.05
養老町教育委員会は、今月末より象鼻山古墳群の範囲確認調査を開始します。
今日は、この調査の無事を祈願して、地元である象鼻山整備促進協議会の主催で安全祈願祭が挙行されました。
梅雨の最中ではありますが、天気に恵まれたため、象鼻山での実施です。
今回の範囲確認調査の対象は、山頂の大きなお墓ではなく、その周囲に広がる平均的な大きさをもつものが中心です。
まずは12号墳(方墳)と14号墳(おそらく円墳)から。
これらのお墓は、これまでほとんど研究されておらず、どんな成果が得られるのか今から楽しみです。
できれば、山頂の墳墓群と1号墳の間の空白期間を埋めるものであってほしいと思いますが・・
さて、どうなるでしょうか・・