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集中豪雨翌日の三ツ屋八幡神社。
2013.06.21
一昨日、昭和34年8月13日の集中豪雨翌日に撮影された、養老町下笠の三ツ屋にある八幡神社の写真を見せていただくことができました。
小倉の婦人会が昼食として配ったおにぎりをもらうため、舟で上多度小学校へ行った帰りに、撮影したものだそうです。
堤防が決壊するとは思っていなかったそうで、決壊してから30分ほどで、三ツ屋まで水が押し寄せたことに、大変驚かれていました。
そうした経験から、当時のことを忘れないようにと、この写真も撮影者のお店に掲示することにされたんですね。
この写真と、撮影者のお話を聞いて、改めて水害の怖さを認識できました。
押越のお不動さま。
2013.06.19
養老町押越の八幡神社の前に、不動明王を祀った不動堂があります。
この不動明王、元は八幡神社に祀られていたのですが、廃仏毀釈により押越にあった永丘寺に預けられ、八幡神社の前に戻ってきたのは、大正末期のことだったみたいですね。
300年以上の歴史があると伝えられていて、棟札などの資料もきちんと保管されているそうです。
ただ、残念なことに、話を聞くことができた当日は、それらの資料を見ることができませんでした。
養老から来たという話や、旅僧が当地に納めたいう話など、様々な言い伝えが残っている押越の不動明王。
次の機会をまって、少しずつ、情報の収集と、その整理をはじめたいと思います。
養老町役場旧庁舎。
2013.06.13
昭和46年(1971)4月に、現在の養老町役場庁舎が竣工するまで、養老町の役場庁舎は、現在の役場南駐車場の位置に建っていました。
上の写真は、そんな養老町役場旧庁舎が写っている貴重な写真。
昭和39年(1964)に、町制10周年記念行事として行われた鼓笛隊パレードを撮影したものですが、後ろの木造2階建の建物が旧庁舎になります。
火の見櫓や、玉泉堂酒造の塀など、思ったほど、今と変わりませんね・・
養老町発足10周年記念式典。
2013.06.11
今日、養老町発足10周年記念式典のアルバムを見る機会がありました。
当然、昭和39年(1964)に行われているのですが、式典の日が11月17日になっていました。
養老改元の日に行われたということですよね。
上の写真は、そんなアルバムの中にあったうちの1枚。
平安・鎌倉・元禄の3つの時代に分かれて行った仮装行列の様子を撮影したもののようなのですが・・
よく見ると、右隅に、先週紹介した、元位置のよく分からなかった道標が写りこんでいます。
貴重な手掛かりですよね。
さっそく、この写真がどこを撮影したものなのかを確認し、道標の正確な元位置を明らかにしたいと思います。
養老公園道の道標。
2013.06.05
養老町役場の西側、電話ボックスのそばに、「右 養老公園道、左 岐阜大垣道、すぐ西京道、明治14年巳8月建立 河野佐七 田中長次 渋谷孫平 川口宇兵衛 多賀太兵衛」と刻まれた道標が建っています。
養老公園開設の翌年に建立されているので、この養老公園道とは、たぶん飯田から直江渡しを経て、高田へ入る養老街道のことでしょうね。
ただ、この道標の詳しい元位置の情報はなく、いつから役場の横にあるのかも分かっていません。
さらに、建立した人たちの名前にも、ちょっと覚えがないです・・
とりあえず、いろんな人に、話しを聞いて、手掛かりを探したいと思います。
島田のお地蔵さま。
2013.05.14
高田橋の南に、きれいな顔立ちをしたお地蔵さまがいます。
毎朝、通勤で必ず通る場所にお堂があり、以前からその由来が気にはなっていたのですが・・
先日、やっと地元の方から、お話を伺うことができ、その優美な姿からは想像できないくらい、このお地蔵さまに、いろいろな変化があったことが分かってきました。
はっきりしないところも多いのですが、このお地蔵さまは明治の後半に、水害で流れてきたか、置き忘れられたかで、牧田川堤防にあったところを発見され、しばらく個人でお守りされていたのですが、その後、お世話が大変になり、地区でお守りされるようになります。
そして、次に集中豪雨に見舞われ、木造のお堂が流され、さらにこのときお地蔵さんの首も折れてしまいます。
また、この頃から、右手にまた錫杖をもつようになり、さらに少したった昭和40年頃には、お堂が木製からコンクリート製に改築されたそうです。
約100年のことだと思うと、ずいぶんな苦労と変化ですよね。
しかし、当のお地蔵さまのお顔には傷一つ無く、少しもそんな雰囲気がありません。
いずれにせよ、よく分からないところも多く、9月1日には毎年お祭りをしていることも教えていただいたので、もう少し情報収集を続けていこうと思います。
なお、この情報は「タギゾウくんの養老ナビ」にも登録してありますので、興味のある方はぜひ一度お参りに行ってみてください。
田中道麿翁顕彰碑設置工事。
2013.05.07
先日、田中道麿翁顕彰碑の設置工事の様子を撮影した写真を見る機会に恵まれました。
これまでには、除幕式を撮影した写真しか見たことがなかったので幸運でした。
荷車とチェーンブロックを使って、建ててますね。
写真に日付はありませんでしたが、顕彰会を設立した昭和32年(1957)7月から、除幕式が行われた昭和32年10月4日の間のものだと思います。
また、右端には、神官さんも写りこんでおり、最初の頃の顕彰祭が、現在のような仏式ではなく、神式であったことも分かります。
どうも昭和53年あたりから、仏式に変わったみたいですね。
ただ、経緯はよくわかっていません。
役員の改選があったようなので、そのせいかもしれませんね・・
田村を見守るお地蔵さま。
2013.05.01
養老町田には、田村を見渡すように建てられていた地蔵堂があります。
いつ建てられたのかがよく分かっていませんが、水の事故が多かった田村で、子ども達を見守ってもらうために、旧十三ヶ村排水路の堤防中段に建てられたみたいですね。
その後、昭和62年の県道小倉烏江大垣線の改良工事の際に、西へおよそ40mの現在地へ移転されました。
そのときには、お堂も新しく建て替えたそうです。ちなみに、移転前と後で、大きさは変わっていないようでした。
この情報は、「タギゾウくんの養老ナビ」に登録してあります。
8月24日に地蔵祭り、1月24日には初地蔵も行っているそうのなので、ぜひ一度現地を訪ねてみてください。
六丁鎌。
2013.04.26
先日、日吉地区のレンゲについてお話を伺っていて、レンゲの刈り取りに適した専用の鎌があることを知りました。
名前は「六丁鎌」というそうです。
私は、この名前だけでは、普通の鎌と何が違うのか、よく分からなかったのですが・・
見れば、納得の形態でした。
養老町橋爪で50年ほど前に実際に使われていたもので、養老町内の近くの鍛冶屋さんに、注文して作ってもらっていたそうです。
そのため、個人個人で少しずつ注文に違いがあり、角度や刃の数にもバリエーションがあったみたいですね。
例えば、刃を2つ減らし、抵抗を少なくした四丁鎌は、主に子どもが使っていたそうです。
そんな、六丁鎌ですが、私が見せていただいたものは、両端の2本の刃が、根元から折れてしまい、違う意味で四丁鎌になってしまっていました。
どうも、地面に当たりやすい両端の刃は、折れることが多かったそうです。
それにしても、確かに、このレンゲ専用の鎌を使えば、立ったまま刈り取りができるようになり、大変なレンゲ栽培の作業も少しは楽になったでしょうね。
西岩道の念佛堂。
2013.04.25
養老町西岩道の墓地の西に、念佛堂と呼ばれているお堂があります。
これは、地元の方が、太平洋戦争から生きて戻ってこられたことに感謝し、個人で建てたものなのですが…
実現したのは、昭和61年(1986)11月のことでした。
終戦からずいぶんと時間が経ってしまっていますよね。
理由を聞いてみたところ、本人はすぐにでも建てたかったそうなのですが、奥さんがお守りが疎かになっては勿体ないという理由で、許可してくれなかったようです。
そのため、奥さんが亡くなられた後、供養の意味も込めて、かねてからの想いを実現することにしたみたいですね。
ちなみに、堤防の拡幅で残った土地に、小さなものを建てるつもりが、大工さんの協力もあって、現在のような立派なものになったという話を聞くこともできました。
そんな念佛堂ですが、地元では、お墓参りの際に、お参りされる方がたくさんいます。
私もその一人なのですが、詳しい経緯を知って、また新鮮な気持ちでお参りできそうです。
日吉特産レンゲ種。
2013.04.19
養老町でも、田植えの準備が近づき、所々で紅紫のレンゲの花を見かけるようになりました。
レンゲは、稲を刈り取った後の田を休める期間に、田に雑草が生えるのを防ぎ、肥料となる上に、その種は貴重な現金収入ともなっていたので、40年くらい前までの養老町では、水田の裏作として、麦と並んで、盛んに作られていたのですが、、、
最近では、田んぼを耕す人も減ってきていて、あまり見かけなくなってしまいました。
お話しを聞いていると、とくに養老町橋爪をはじめとする、水はけの良い日吉地区では、刈り取ったレンゲは、採種用としての需要も高く、「日吉特産レンゲ種」と呼ばれ、地元商人や農協を通じ、広く県外にも販売されていました。
ただ、太陽でさやが乾燥して種がこぼれないよう、朝早くに家族総出でレンゲを刈り取ったり、風選作業で、ほこりにまみれて種を取り出すといった、レンゲに関わる作業が大変だったので、徐々に作られなくなっていったみたいですね。
ちなみに、当時の橋爪は、あたり一面が紫色に染まるくらいレンゲの花が咲いていたそうです。
上の写真は、そんな養老町橋爪で、一人生えしていたレンゲの花を撮影したもの。
これまであまり気にすることがなかったのですが、日吉特産レンゲ種の生き残りだったんですね。
養老町立小学校の登校班。
2013.04.18
養老町では、全ての小学校で、班別の集団登校をしています。
主な目的は、交通事故や連れ去りなどの防止。
登校班と呼ばれ、規模の目安は10人、高学年が班長と副班長を務め、低学年の人数が多いときは、高学年の負担を減らすためにさらに2つに分けることもあるそうです。
ちなみに、上の写真の登校班の班長と副班長は、黄色い安全旗を持っている二人。
横断歩道の両側に立ち、低学年を先に渡らせるその様子を、とても頼もしく思いました。
なお、この小学校の集団登校は、孫を見送るようになった私が小学生のときにはすでにあり、その頃は20人以上いても1班の登校でした。
そして、孫の同級生の、70歳代のおじいちゃんも集団登校で広幡小学校に通っていたそうです。
いったい、いつから養老町にある仕組みなんでしょうね。
ソーメン早食い大会。
2013.04.05
先日、養老公園で行われていた「ソーメン早食い大会」の写真を見る機会に恵まれました。
看板の内容から、開催が7月28日の14時で、会場が渡月橋の北側あたりであったことは分かったのですが・・
いつ撮られたものなのかが、よく分かりません。
白黒写真であることや、写っている人の服装を考えると昭和40年くらいですかね。
他にも写真は残っていて、この他に、ビールやラムネの早飲み大会も開催されていたことが分かってきているので、ソーメン大将や、ビールの王様の栄冠を手にした人たちが、どんな賞品をもらっていたかなど、ひき続き情報収集を続けたいと思います。
船附八幡神社の狛犬。
2013.04.02
養老町船附の八幡神社で、コロコロと動く玉が口の中に入っている狛犬を新たに見つけました。
当ホームページでは12例目、笠郷地区では早戸神社、八剣神社に引き続き3例目の発見になります。
そして、この狛犬がいる船附八幡神社では、若木ではありますが、ソメイヨシノの他に、彼岸桜やしだれ桜もきれいに咲いていました。
このうち、彼岸桜は、時期がそろそろ終わりそうですが、まだ若木ならではの鮮やかな紅色の花を咲かせています。また、ソメイヨシノは今が見頃で、しだれ桜はもうしばらく楽しめると思います。
神社周辺は道が狭く、駐車スペースもありませんが、今なら狛犬だけでなく3種類の桜も楽しめるので、近くにお住まいの方は、ぜひ見に行ってみてください。
養老北小学校の春の遠足。
2013.03.14
先日、昭和39年に行われた養老北小学校の春の遠足の写真を見せていただきました。
象鼻山ですよね。
写真の右上に、当時1号墳の上にあった明治記念碑が写っているので、3号墳あたりでお弁当を食べているところを撮影したものだと思います。
ちなみに、沢田の養老北小学校から象鼻山へ行くためには、川を渡らなければならないのですが、どうやら上石津町乙坂と養老町沢田の間にあった小さな木造の橋を通ったみたいですね。
当時の地図で距離を測ってみると、3.7kmくらいの道中でした。
小学校1年生の足だと、2時間くらいですかね。
それにしても、バナナを食べている子が目立ちます。
50年程前は、特別な日のお弁当のデザートといえばバナナで、私もお昼をとても楽しみにしていたことを思い出しました。
下笠上市場のお地蔵さま。
2013.03.13
養老町下笠字上市場に、個人でお守りされているお地蔵さまがいます。
このお地蔵さまは、今から100年ほど前に、現在の管理者の祖母にあたる方の産後の身体状態が思わしくなく、その回復を祈って建てられました。
その後、お地蔵さまの御利益で、おばあさんの体調も戻り、現在も家族で大切にお守りを続けられているそうです。
そんな下笠字上市場のお地蔵さまですが、私が初めてお参りしたときには、野球の試合の勝利祈願として、息子さんがお供えしたボールがありました。
当初の目的とは違うかたちですが、今もこのお地蔵さまが家族の心の拠り所となっているんですね。
養老公園の梅林。
2013.03.05
昔の養老公園には、見事な梅林がありました。
上の写真は、その当時の様子を撮影した貴重なもの。
白黒ですが、それでもすばらしい景観であったことが伝わってきますよね。
そんな梅林ですが、今はもう無く、現在は、養老公園の駐車場(養老寺東隣)になっています。
ただ、駐車場の周辺を、よく見ると、生き残った梅の木がポツリポツリ・・
今日確認したところでは、まだ小さなつぼみでしたが、もう間もなくきれいな花を咲かせてくれると思いますので、ぜひ養老公園にお越しの際には、こちらもご覧になってください。
養老神社の木製鳥居。
2013.03.01
先日、養老神社の鳥居がまだ木製だった頃の写真を、見せていただくことができました。
養老神社の鳥居が昔は木製だったいうお話は何度か聞いていましたが、こんな様子だったんですね。
現在の石製の鳥居も悪くないですが、木製もすてきです。
ただ、いろいろお話しを聞いていると、どうも養老神社の鳥居がどこにあるのか知らない人も、けっこういるみたいですね。
たしかに、駐車場から、まっすぐ神社本殿を目指すと、ここは通らないかもしれませんが・・
養老神社の参道にぴったりの道ですので、養老神社にお参りされる際には、ぜひ千歳楼旅館の通りから、鳥居をくぐって行ってみてください。
結婚式のたびに隠されるお地蔵さま。
2013.02.21
養老町の瑞穂西には、地元で結婚式があるたびに、どこかに隠されてしまうお地蔵さまがいました。
地元の方に伺ったところによると、昭和の初め頃までの話みたいですが、地域で結婚式があると、村人が地蔵を持ち出して、村内外のどこかに隠し、隠された地蔵を新郎新婦の親族が探し出して、もとの御堂に戻すという慣わしがあったそうです。
遠いときには、3km以上離れた小坪に隠されていたこともあったみたいですね。
ただ、新婦がお地蔵に触れると、この地には住みつけなくなると考えられていたようで、お嫁さんだけは、決して触らないように気をつけていたそうです。
ちなみに、当時こうした行事を取り仕切っていたのは、村の若者たち。
きっと、楽しんでやっていたんでしょうね。
養老公園にあった群霊塔。
2013.02.18
明治の終わりから昭和18年までの間、養老公園の妙見堂の北東あたりの位置に、濃尾震災の犠牲者と、日清戦争の戦没者を祀った群霊塔が建っていました。
ただ、この群霊塔は銅製であったために、昭和18年に第2時世界大戦に伴う金属回収で供出され、建立後50年足らずで、その姿を消してしまったそうです。
上の写真は、そんな群霊塔が、まだ養老公園にあったころの様子を撮影した貴重な写真。
これだけでは、よく分かりませんが、塔の上部三方には、まるで下を睨んでいるように仏像が取り付けられ、怖いもののように感じる方もいたみたいですね。
どんな仏像だったのか・・
引き続き、情報の収集を続けたいと思います。