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旧養老公園事務所の古写真。
2013.10.21
先日、旧養老公園事務所が現役だった頃の写真を見つけました。
これ1枚だったので、全体はよく分かりませんが、正面は今とそんなに変わりませんね。
役目を終えた後、養老公園駐在所としてしばらく利用され、その後、孝子館になった旧養老公園事務所。
ただ、その年代など、あまり詳しいことは分かっていないので、ひき続き情報収集を続けたいと思います。
どこかに、全体を撮影した写真が残ってないですかね・・
岡本喜十郎顕彰碑の元位置。
2013.10.16
先日、昭和6年(1931)に撮影された、牧田川改修工事起工式の神事の写真を見る機会がありました。
忠霊塔が写り込んでいるところを見ると、高田中学校の南の広場が会場だったようです。
よく分かりませんが、改修によって牧田川の南側流路が失われるため、この場所を選んだのかも知れませんね。
しかし、それよりも気になったのが、忠霊塔の奥に写り込んでいる石碑。
岡本喜十郎の顕彰碑ですよね。
まだ少し検証が必要ですが、昭和3年(1928)2月7日に建碑されたことを考えると、たぶんこれが元位置になると思います。
多良街道に標柱が設置されました。
2013.10.11
象鼻山の麓を通る多良街道跡(たらかいどうあと)に、新たに標柱と案内看板が設置されました。
地元である養老町橋爪の象鼻山整備促進協議会によるもので、これにより、街道の位置がよく分かるようになりました。
ありがとうございます。
ちなみに、多良街道というのは、養老町橋爪を経由して、大垣市上石津町多良と大垣市久瀬川を結んでいた古道。
今では、ほとんど残っていませんが、象鼻山の麓には、少しその雰囲気が残っています。
象鼻山に行かれた際には、ぜひこちらにも寄ってみてください。
飯田の旧養老街道沿いのお地蔵さま。
2013.10.04
養老町飯田の旧養老街道沿いには、地蔵堂が2つ建っています。
上の写真は、そのうち北側の村地蔵を撮影したもの。
どうみても、中世の五輪塔の火輪の上に、中世の石仏が乗っかっていますよね。
ちなみに、もう一つの地蔵堂にお祀りされているものも、中世の板碑でした。
このあたりが、遺跡であることは把握できていたのですが、ひょっとしたら墓域があったのかも知れませんね。
村地蔵の西側は、飯田八幡神社の元位置であり、さらにその場所のことを「お薬師さん」とも呼んでいたという情報がありますので、このことを手掛かりに、ひき続き、調査を続けたいと思います。
かわど。
2013.10.03
養老町の南小倉には、共同の洗い場が3カ所あり、いずれも「かわど」と呼ばれています。
ただ、なぜそんな呼ばれ方をしているのかや、どのような漢字を充てるのかが、よく分からなかったので、あとで少し調べてみたところ・・
「川端」という字を充てることが分かりました。
どうも、「洗濯・炊事をするところ」という意味みたいです。
一昔前までは、生活に川の水を利用することはごく当たり前のことだったので、その名残なんでしょうね。
南小倉の洗い場は、いずれも自然の湧水点を利用してつくられているので、河間(がま)の河の字を充てるのではないかと考えたりもしましたが、間違っていました・・
多良街道の一本松。
2013.09.25
養老町橋爪には、大垣と上石津町多良を結ぶ多良街道が通っていました。
左の写真は、そんな多良街道を撮影した貴重な1枚です。
養老町の新宮あたりから、南西方向に撮影されたものでしょうね。
奥に写っている象鼻山も気になりますが、この写真でもう一つ気になるのが、街道沿いに立つ一本の松。
おそらくこれが、関ヶ原合戦で西軍の敗残兵が逃げ遅れ、力尽きて松の根元で甲冑を着たまま亡くなったと伝わる多良街道の一本松だと思います。
こんな風だったんですね。
昭和60年までは、まだあったらしく、地元にはこの松のことを覚えている人も多いのですが、私は初めてでした。
現在では、その姿をほとんど消してしまった多良街道、できれば一度歩いてみたかったです。
名神高速道路ができる前の象鼻山。
2013.09.11
先日、新たに象鼻山を撮影した古い写真を見つけました。
はっきりとした年代は分かりませんが、名神高速道路がまだないので、それ以前のものですよね。
そのため、この写真には、壊される前の象鼻山の鼻が写っているはずなのですが・・
何度、目を凝らしてみても、よく分かりません。
とりあえず、当時の養老町橋爪を知る方に、一度見てもらおうと思っています。
昭和31年の西光寺。
2013.09.10
先週、昭和31年4月3日に撮影された、直江の西光寺の写真を見せていただくことができました。
南直江の旧牧田川堤防上に立地する西光寺を東側から撮ったもので、西光寺だけでなく、その周囲の様子もよく分かる貴重なものです。
昭和55年に発行された「時宗の寺々」という本に、本堂と鐘楼を備えたお寺だったと記されていましたが、こんなかんじだったんですね。
写真の左隅に写りこんだ地蔵堂が、現在の南直江の地蔵堂だと教えていただくまで、これが西光寺だと気付きませんでした・・
それにしても、元は旧牧田川堤防よりも西の字経堂にあり、関ヶ原の戦いで焼失するまで、150石の寺領と、春日・八幡・神明の三社の宮を含む7つのお堂からなっていたとされている西光寺。
どのような過程を経て、ここに移転し、写真のような状況に至ったのかが改めて気になります。
とりあえず、字経堂に残る八幡神社跡から、調べてみようと思います。
長顕寺の鐘。
2013.09.06
養老町西岩道では、仏事以外に、村方の行事や、お宮の神事でも、長顕寺の鐘でその開始を知らせています。
仏事以外では、住職ではなく、それぞれの当番が鐘を衝いていて、西岩道ではとても身近な存在なのですが・・
どうも仏事以外でも、お寺の鐘が使用されるのは、養老町では珍しいみたいですね。
両隣にある口ケ島や岩道では、仏事以外にお寺の鐘を使用していないようでした。
ちなみに、この長顕寺の現在の鐘は、昭和23年2月に檀家から寄進されたもの。
以前のものは、戦時に供出されています。
毎朝5時には、時刻も知らせてくれていて、西岩道の生活には欠かせないものになっています。
大場のお地蔵さま。
2013.09.05
養老町大場の燈明橋南、五三川沿いに、区でお守りされているお地蔵さまがいます。
元は、現在地より約40m南の五三川左岸堤にお堂があったのですが、昭和34年の水害後、五三川水害護岸工事に伴い、大場本田八幡神社社標の東側に移転され、さらに、平成19年になって、お堂の老朽化と町道沿いが危険だという理由で現在地に移されました。
由緒など詳しいことはわかりませんが、毎年、8月の第3日曜日には、西運寺さんをお招きして地蔵盆が行われ、参加した子ども達にはお供えしたお菓子も配っているそうです。
ただ、池辺地区でよく聞く結婚式に関係する風習は、このお地蔵さまにはないみたいですね。
この情報は、タギゾウくんの養老ナビに登録してあります。ぜひ一度訪ねてみてください。
念佛瀧。
2013.09.03
先週、明治初めの養老町の絵図の中に、これまで聞いたことのない滝を見つけました。
名前は「念仏の滝」です。
養老の滝の南に描かれており、多藝の滝(直江の滝)が描かれていなかったことから、最初は、多藝の滝のことを表しているのかとも思いましたが・・
絵図の精度や、周辺の地図情報から、多藝の滝を誤認したとは考えにくいと判断しました。
ということで、今月の下旬に、現地確認を行います。
新しい発見になれば、改めてご報告しますので、ぜひ楽しみにお待ちください。
養老競馬場の写真。
2013.08.30
先週、ご紹介した「養老競馬場」ですが、当時の写真を見つけました。
南西のコーナー部分を、南東から撮影したものです。
まさに、百聞は一見に如かずですよね。
地図や、空中写真からイメージしていたものとは全く違いました・・
ちなみに、手元の資料から、おおよその規模を復元したところ、長辺が530m、短辺が250mで南北に長く、コースの幅が20m、1周すると1,200mの競馬場だったことも分かりました。
次は、写真で見るような山を削った地形が、現在も残っているか調べてみようと思っています。
瑞穂東の辻地蔵。
2013.08.22
養老町の瑞穂東に、道路の辻にお堂が建っていることから、辻地蔵と呼ばれているお地蔵さまがいます。
ちなみに、辻とは、道路が交わる場所のことなんですが、このお地蔵さまは、もとは現在地より100メートルほど北へいった牧田川堤防上にお堂があったそうです。
つまり、辻地蔵と呼ばれるようになったのは、戦後の河川改修で現在地に移ってからのことだったのかもしれませんね。
ただ、この辻地蔵、これ以上の情報がなかなか集まってこないので、地元の聞き込みを続けていると、今から60年ほど前まで、瑞穂東で結婚式があると、村のお地蔵さまを、その家の軒先に運び込むのが恒例になっていたということが分かってきました。
辻地蔵だけの話ではないのですが、どうも地域の中で結婚式があると、青年団が中心となって、夜中のうちに村中のお地蔵さまを、その家の軒先に並べて帰ったようです。
数に制限はなく、お供えをすることや、もとの場所にお戻しするところまで全て、地蔵が運び込まれた家が面倒をみたみたいですね。
さらに、ご丁寧なことに、お地蔵さまの足の裏には、場所を示した紙が挟まれており、返す場所が分からなくなることもなかったそうです。
それにしても、終戦くらいまでの養老町には、こういった結婚式とお地蔵さまが結びついた話が多いような気がしますね。
もう少し、情報が集まれば、一度まとめてみたいところです。
養老説教場の「夏の御文」
2013.08.21
昨日、養老公園にある養老説教場で、「夏の御文(げのおふみ)」が勤められたので、お邪魔してきました。
ちなみに、夏の御文というのは、蓮如上人が亡くなられる前年に書き遺した4通の手紙を拝聴し、信心の大切さを確かめ合う仏事のこと。
養老説教場では、毎年、お盆過ぎのこの時期に実施しているみたいです。
その折、見せていただいた説教場に関する資料によると、本山から夏の御文が養老説教場に下附された年が大正3年(1914)となっていたので、もう100年近く続けられているんだと思います。
養老説教場には、専従の住職や門徒がおらず、町内の真宗寺院と世話方だけで管理していることを考えると、大変なことですよね。
養老競馬場。
2013.08.20
昔、養老町には競馬場がありました。
町史などに記事が無く、あまり詳しいことは知らないのですが、昭和13年(1938)に開設されたようです。
ただ、長続きせず、翌年には廃止されてしまったみたいですね。
上の写真は、その後宅地に変わったものの、わずかに養老競馬場の名残が残る、養老町鷲巣の道路の様子。
東側のストレート部分を北西側から撮影したものになります。
地図を眺めているだけでは、よく分かりませんでしたが、ここに立つと、少し馬が走っている様子が想像できますね。
とはいえ、百聞は一見に如かず。
ひき続き情報収集を続け、できれば当時の写真などを見つけたいと思います。
養老駅前の池。
2013.08.19
養老駅にある駅前区の公園内に、噴水が設置された小さな池があります。
この池、実は養老の滝から流れてくる水を使用していて、元々は、養老鉄道を走る蒸気機関車へ給水するためのものでした。
地元の方によると、噴水が出ているあたりに、給水ポンプがあったそうです。
大正12年(1923)に養老鉄道が電化されて、汽車が電車に変わるまで使用されていたみたいですね。
養老鉄道に蒸気機関車が走っていたことを思い出させてくれる数少ない場所ですので、ぜひ養老駅を利用する際には、こちらにも足を運んでみて下さい。
押越不動堂の棟札。
2013.08.01
先日、養老町押越の不動堂に納められている棟札を見せていただく機会に恵まれました。
表面は、梵字の他に
「延宝八庚申暦 大越家法印
奉修不動明王法金山冨貴繁昌祈所
八月大吉祥 成就院敬白」
と書かれていて、
裏面は梵字だけでした。
少なくとも、延宝8年(1680)には、押越に不動明王がいたということでしょうか。
ただ、現在お祀りされている不動明王には、宝暦12年(1762)に安置されたという話もあるので、まだもう少し、調査を続ける必要がありそうです。
ヨーローボウル。
2013.07.12
今は、遊園地としてよく知られている養老ランドですが、そのスタートはボウリング場だったことを教えていただきました。
養老郡で初めてのボウリング場として、昭和47年6月25日に、営業を開始したそうです。
24レーンを備える大きなものだったみたいですね。
今は、ボウリング場としては営業していませんが、屋内でメリーゴーランドなどを楽しめる建物として活用されていますので、養老ランドへ遊びに行かれた際には、ぜひ屋内も探検してみてください。
永丘寺跡の子安地蔵。
2013.07.05
養老町押越に、赤ちゃんを抱いた姿のお地蔵さまがいます。
このお地蔵さまが建てられた経緯はよく分かっていませんが、永丘寺の跡地にあり、永丘寺と関係があるみたいです。
ちなみに地元では、このお地蔵さまにお参りすると、お乳の出が良くなると言われていて、出産した女性はよく、お参りに通ったんだそうです。
お話を伺った83歳の女性も、出産の前後は、特によく通ったとおっしゃっていました。
このお地蔵さまの位置情報を養老ナビに登録しました。
個人の敷地内にありますが、どなたでもお参りをして良いそうなので、ぜひ訪ねて見てください。
最初の広幡保育園。
2013.07.03
養老町の広幡地区で、最初の保育園は、金草川の南堤防のそばにありました。
上の写真は、その広幡保育園を南から撮影したもの。
町制20周年記念冊子のために撮影されたものなので、昭和48年(1973)頃に撮影されたものだと思います。
私は、ここで2年間お世話になっていたのですが、南北に長細い敷地には、南から園庭、園舎、プール、遊戯室が設置されていました。
とくに大好きだったのがブランコで、先生が吊り具を設置しはじめると、すぐに列に並びました。
ただ、写真を見なおしてみると、なぜ、ブランコの吊り具がいつも外された状態になっていたのか改めて疑問に思います。
安全面でしょうか・・