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多芸小学校の廊下。
2022.06.30
先日、養老町多芸公民館の西隣にある、旧多芸小学校舎の内部を見せていただく機会がありました。
多芸小学校は、大正10年(1921)に新築されましたが、昭和44年(1969)に三神・泉・南直江の児童が養老小学校へ、金屋・直江・飯積の児童は小畑小学校へ通うこととなり、廃校を迎えた小学校です。
現在残されているのは当時の校舎の一部ですが、その「廊下」が普段見ている学校のものと違っていました。
玄関から廊下までコンクリ―ト敷きの土間になっており、廊下の教室側半分が小上がりのように一段高い板の間となっていました。案内していただいた地元の方は、「犬走り廊下」と呼んでいました。児童は玄関ではなく廊下で靴を脱いで教室へ入っていたそうです。そのため、廊下に下駄箱がありました。
当時の児童たちが教室を出てすぐに靴を履いて、外遊びへ飛び出す光景が目に浮かびました。なんだかワクワクする造りですよね。
ただ、不思議だったのが、教室の中にも廊下の下駄箱と同じ棚があったことです。廊下に置ききれなかった子が置いていたのでしょうか。当時通っていた人がいたら、一度聞いてみたいと思います。
小畑小学校跡。
2019.02.07
現在、養北小学校が建っている場所には、かつて小畑小学校がありました。
小畑小学校というのは、養北小学校の前身の学校であり、大正2年(1923)に建てられました。
現地には、いまも当時の校門が残っており、
「昭和二十一年十一月三日 寄贈 大橋治郎平」(写真向かって右側の石柱)
「憲法公布記念」(写真向かって左の石柱)
と書かれています。
校区である大坪の大橋治郎平さんという方が寄贈されたみたいですね。
地域の方のお話によると、当時は小学校の辺り一面に田んぼが広がり高い建物がない中、小学生の背丈から見たこの校門は、とても大きくかっこよく見えたそうです。
この校門が建てられてから、73年ほど。
いまも変わらずの児童を迎えてくれています。
祖父江の伏越樋管。
2014.06.11
杭瀬川に隣接する養老町の祖父江ですが、輪中形成による河床高の上昇により、杭瀬川に排水できなくなったため、杭瀬川を横切り、大垣市域を通して、揖斐川に排水していた時期がありました。
そんな大変な計画を支えたのが、川底に川を横切るように作られた伏越樋管(ふせこしひかん)という排水路。
ヒノキの板を組み合わせたもので、養老町江月に排水機が設置されるまで、約130年間、機能していたようです。
ちなみに、地元の方によると、まだその痕跡が杭瀬川に残っているみたいなので、近いうちに、現地を確認してみようと思っています。
茶室にあしらわれた古代の瓦。
2014.05.22
養老町の、近代に建てられたある茶室の調査に同行させていただいた際、茶室の一部に、遺物があしらわれているのを見つけました。
埋め込まれているため、全体の観察はできていませんが、まず間違いなく、古代の軒丸瓦と軒平瓦だと思います。
古代における瓦は、現代とは違って、限られた建物にしか使用されないため、過去を探る上で、貴重な手掛かりになるもの。
そのため、どうしてこのような使われ方をしているのか不思議に思い、調査担当の先生に尋ねてみたところ・・
近代においては、こうした遺跡で発掘された遺物を、好んで建造物の意匠に用いる例が意外に多いということを教えていただきました。
ちなみに、この茶室で使用されていた場所は、外腰掛と呼ばれる部分。
つまりは、古代瓦の上に座布団などを敷いて座っていたということなんでしょうね・・
往古ハ牧田川、今ハ金草川。
2014.05.01
先日、江戸時代の絵図の中に、「往古は牧田川通り 今は金草川という」と書かれた一文を見つけました。
養老町の地形環境を考えれば、牧田川の流路が徐々に、養老山麓から離れていったことは明らかだとは思いますが・・
それを、江戸時代の絵図の中で、追認できるとは思っていなかったので、とても驚きました。
こういった資料を目にすると、津屋川についても何か残っていないかと、つい淡い期待を膨らませてしまいますね。
平田靱負翁終焉地碑の設置風景。
2014.04.28
先日、大巻薩摩工事役館跡に、平田靱負翁終焉地碑を建立している工事風景を撮影した写真を見る機会がありました。
正確な撮影日は不明ですが、除幕式における山田貞策翁の式辞に記された日付が昭和3年(1928)5月6日になっているので、それよりも少し前に撮影されたものだと思います。
ちなみに、この記念碑の建立は、大正14年(1925)の薩摩義士顕彰会発足当時から計画されていた事業の一つ。
そのため、約3年かけて実現にこぎつけたことが分かりますよね。
ただ、ここで少し気になるのが、この記念碑設置と並んで、もう一つ予定されていた養老公園付近での記念館設置計画については、着手した形跡が見つかっていないこと・・
こちらは、どんな事情があったんでしょうね。
池辺小学校100周年。
2014.03.18
先日、昭和48年(1973)に、旧池辺小学校が100周年を記念して撮影した航空写真を見る機会がありました。
ただ、養老町瑞穂に旧池辺小学校の新校舎が建てられたのは明治31年(1898)のことで、その後、養老町大巻の池辺小学校に移ったのが昭和58年(1983)なので、その期間だけを考えると、旧池辺小学校だけでは100年も経過していませんよね・・
そのため、明治6年(1873)が池辺小学校にとってどういった年にあたるのかを確認したところ、明治5年(1872)の学制頒布に伴い、養老町大巻の智通寺に璞玉義校がつくられた年であることを知りました。
つまり、池辺小学校の端緒となった璞玉義校が創られてから100周年を記念して、航空写真の撮影を行ったということみたいですね。
ちなみに、璞玉(はくぎょく)とは、磨かれるのを待つ玉のこと。
池辺の最初の学校に、ぴったりの名称だと思いました。
鐘の供出。
2014.03.14
先日、戦中の金属不足を補うために、お寺の鐘が並んで運ばれていく様子を撮影した写真をみる機会がありました。
撮影された日時はよく分かっていませんが、終戦間近のもので、場所は美濃高田駅前の通りだと思います。
金属の供出については、これまでにもいろいろとお話を聞く機会がありましたが、運ばれていく様子にまで話が及ぶことはなかったので、この写真を見るまでは、こんな行列をつくっていたとは思いませんでした。
美濃高田駅に向かって運ばれているので、この後は電車に乗せられたんでしょうね。
あと、ちょっと気になったのが、手前に写り込んだ人たちに笑顔が見られること。
養老町押越で伺った話では、鐘も半鐘も、二つとも持って行かれてしまい、子供にも分かるほど、悲しい出来事であったとおっしゃっていたので、少しだけ違和感が残りました。
西岩道青少年集会所。
2014.03.13
私が住む養老町西岩道に青少年集会所ができたのは昭和53年1月のことでした。
それまで、西岩道の寄り合いや子ども会のイベントはお寺で行われていましたが、これ以降は、すべて集会所が利用されています。
養老町全体に、青少年集会所が整備されるようになったのも、昭和40年代半ば頃からのことで、西岩道もこうした流れの中で、集会所が整備されたんでしょうね。
ちなみに、集会所ができた当時、一番印象的だったのが、冬の暖かさ。
お堂は冬の寒さが身にしみますよね・・
杭瀬川に流される前の分流記念碑。
2014.03.11
先日、牧田川と杭瀬川の中堤を撮影した写真を見つけました。
正確な撮影年代は不明ですが、牧田川・杭瀬川分流記念碑が写り込んでいるので、昭和51年(1976)の中堤決壊以前に撮影されたものでしょうね。
現在の分流記念碑が、昭和51年の中堤決壊で一度杭瀬川の川底に沈み、後になって引き上げられたものだという話は何度か聞いていましたが、決壊前の分流記念碑の正確な元位置を把握できていなかったので、大変参考になりました。
福源寺の子持ち地蔵。
2014.03.07
養老町室原の福源寺の墓地には、たくさんのお地蔵さまがいます。
そのほとんどは、養老町でよく見かけるような手を合わせたお姿をしているのですが・・
そのうち1体だけ、両手で赤ちゃん抱きかかえているものがあります。
これまでに、養老町で確認できていた同じお姿のお地蔵さまは、押越の永丘寺跡の子安地蔵だけで、そちらも詳しい由来が分かっていなかったため、室原でもご近所に少しお話を伺ってみたのですが・・
こちらも、あまり詳しいことは分かりませんでした。
赤ちゃんを抱いたお姿のお地蔵さま、いったい、どんな思いが込められているのでしょうね。
橋爪3番堤。
2014.03.05
一昔前の養老町橋爪の牧田川堤防は、4つの霞堤からなっていて、西から順番に橋爪1~4番堤と名付けられていました。
上の写真は、そんな橋爪村の絵図に描かれた1~4番堤を撮影したもの。
写真では、ちょっと4番堤が切れてしまっていますが、明治5年(1872)のもので、当時の堤防の位置関係がとてもよくわかりますよね。
ただ、この絵図をはじめて見たときに、少しショックだったのが、象鼻山の鼻の本当の名前が「橋爪3番堤」であることがはっきりしてしまったこと。
うすうす気付いていましたが、象鼻山古墳群の時代に、象鼻山に鼻はなかったんですね・・
橋爪の高札場。
2014.03.04
安政5年(1858)の橋爪村屋敷図を写した絵図の中に高札場を見つけました。
ちなみに、高札場とは、幕府などが定めた法令を木板に書き、掲げておく場所のこと。
人目につきやすい所に設置されることが多いため、村の中心部や往来が多かった場所を考える上で参考になりますよね。
ちなみに、位置は、念長寺から約60mほど東の地点でした。
養老町橋爪は、江戸時代からの地割りがとてもよく残っており、これだけで十分に位置が特定できるので、今度は現地で情報収集を行いたいと思います。
釘さし。
2014.02.28
昭和20~30年代くらいの養老町には、「釘さし」という遊びがありました。
その名の通り、釘を使った遊びで、二人以上であれば何人でも遊べるのが特徴です。
ルールは、順番に地面にささるように釘を投げていき、自分の釘がささった場所から次にささった場所へと軌跡が分かるよう線を引く。そして、自分の釘が他の誰かの釘の軌跡によって出られなくなったり、誰かの軌跡を横切ってしまったら負けというものです。
ただ、人から話を聞くだけでは、いまいちよく分からないところがあったので、実際にやってみたところ・・
思っていたよりも、頭脳プレーが要求される遊びであることが分かりました。
また、釘を刺すのに、ちょっとしたコツが必要ですね。
ちなみに、テストでは五寸釘を使いましたが、その頃の釘は貴重品で、主に二寸釘を使っていたみたいです。
また、年下の子どもには、投げずに釘を刺してよいといった特別ルールもあったようですね。
釘を使うため、全く危険がないわけではありませんが、昔もこれでケガをするような子はいなかったそうなので、少し柔らかい地面がある庭先などでぜひ試してみて下さい。
3~4人くらいの人数で遊ぶのが、ちょうど良いかと思います。
茶園原堤の位置。
2014.02.27
明治時代頃、南牧田川の養老町五日市付近の南堤防は霞堤になっていて、連続していませんでした。
この不連続部分付近の一部の通称が茶園原になります。
町史によると、この付近には、長さ48間(約87m)の茶園原堤という牧田川の請堤防があり、明治20年(1887)には、牧田川請茶園原堤防組合連合村会という行政区域の枠を超えて水利工事や整備を行うことができる組織も結成されたみたいなんですが・・
この堤防の正確な位置がよく分かりません。
昭和46年(1971)の土地改良事業までは、堤の一部と大きな池が残っていたようなので、この情報を頼りに、もう少しその跡を探してみたいと思います。
白石薬師堂。
2014.02.24
養老町の白石区が移転する前の元位置には、白石薬師堂が残っています。
建立された年代は不明ですが、地元では15世紀末~16世紀初頭くらいに造られたのではないかと考えられています。
白石村は、永正元年(1504)に養老神社の社殿を造営しているので、その頃には村造りも落ち着いていただろうという推測が一つの目安になっているんでしょうね。
そんな約500年もの歴史をもつ白石薬師堂ですが、残念なことにご本尊の薬師如来像は大正初期に盗難にあってしまい、現在は座像蓮台の石仏が代わりにお祀りされています。
ただ、この他にも寛文12年(1672)の銘をもつ瓦器質の狛犬や石塔物などが納められているようなので、厨子が開かれる10月の第3日曜日の薬師祭りにもう一度おじゃまし、白石村のルーツを辿れそうな手掛かりを探してみたいと思います。
桜井の里。
2014.02.20
養老町桜井の白鳥神社には、ヤマトタケルが休息し、水を汲んで飲んだとされる泉があります。
ちなみに、ヤマトタケルはこの水を「水甘美にして、その味、桜の如し」と評したそうで、桜井の地名もこれに由来しています。
そんな桜井の泉ですが、今まで一度も水が枯れたことがないみたいですね。
さらに、30年ほど前に日照りが続いたときには、村中総出で泉の掃除をし、雨乞いしたところ、雨に恵まれたという話や、泉にはまった子どもが助かったとき、白いひげのおじいさんに助けられたと話したというエピソードなどもあるようです。
また、江戸時代には、田中道麿さんが、「着更きと 春去りくなる名そしるき 花咲き匂ふ桜井の里」という歌も残しています。
境内の北側では、この水が飲めるようになっていることもあり、私も道麿さんに感化されて、2月の桜井の水を飲んでみましたが、ちょっと桜の味は分かりませんでした。
次は花の咲く頃にここを訪れ、桜にヤマトタケルの謎を尋ねてみて、道麿さんの気分を味わってみたいと思います。
木造の高田橋。
2014.02.05
昭和29年(1954)にコンクリート製になるまで、高田橋は木造の橋でした。
上の写真は、そんな木造の高田橋が架けられたときの開通式の様子を撮影した貴重な写真。
明治41年(1908)のもので、たくさんの人が見物に来ている様子が伺えますね。
ただ、この木造の高田橋は、その後、台風や豪雨によって何度か押し流されており、明治41年以降も、牧田川に橋が架かっていない時期があったそうです。
そのため、この牧田川を渡って高田中学校へ通学していた生徒さんたちは、服を脱いで河床をわたらなければならないことがあり、大変な思いをすることもあったみたいですね。
男女関係なく、とくに冬は辛かったそうです・・
そんな高田橋ですが、昭和20年代に入ると、水量が多いときには、近くの養老町金屋や直江の人が監視に出て来てくれるようになっていました。
現在も、老人会の方が通学路に立って、児童生徒の安全を見守ってくれていますが、その原形は今から60年以上も前に生まれつつあったんですね。
昭和中頃の象鼻山の木々。
2014.02.04
昭和30~40年頃の象鼻山は、周囲の木々が低く、山頂に上がると周りがとてもよく見わたせました。
そのため、家族みんなで山に登り、山頂でお弁当を広げる風景がよく見られたそうです。
また、木々の数も多くなく、子どもの頃の記憶では、草だらけの細い道を走って登ったみたいですね。
上の写真は、そんな当時の象鼻山の眺望と、木々の様子がよくわかる貴重な写真。
詳細な地点は分かりませんが、昔の登山道も東から西に向かっていたので、山頂近くで北西から撮影されたものだと思います。
奥に写っているのは、橋爪付近でしょうね。
それにしても、こうして、人の写り込んだ写真で比較すると、改めて当時の松の大きさがそれほどではなかったことや、スギやヒノキのような高木がなかったことが分かりますね。
何もかも昔が良いというわけではないでしょうが、この山頂の眺望だけは、現在の象鼻山に取り戻したいです。
下笠輪中と根古地輪中の境。
2014.01.27
養老町大野と根古地の大字の境には、下笠輪中と根古地輪中を分けた堤防の一部が残っています。
ということは、大野と根古地の境は、江戸時代から現在まで変化していないということですよね。
ただ、近所の方によると、昔の輪中堤は、現在よりもずっと高く、堤上には水屋などがあって、今とはずいぶん様子が違っていたそうです。
しかしそれでも、昭和34年(1959)の集中豪雨と伊勢湾台風後に、大野の集落の8割ほどが移転したことや、土地改良が実施されたことを考えれば、この輪中堤付近は、まだ昔の雰囲気がよく残っていると思います。
近くに寄られた際には、ぜひ散策していってみて下さい。