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岡本喜十郎懸賞文。
2013.09.13
昭和4年(1929)、まだ養老町高田に小学校があった頃に、小学校6年生が岡本喜十郎について書いた作文を見る機会がありました。
岡本喜十郎は、千歳楼の創始者で養老公園開設の礎を築いた人物ですが、養老町高田の出身だったので、高田尋常小学校で、その功績を詳しく教えていたんでしょうね。
58名もの応募があり、中には原稿用紙4枚にもわたって、岡本喜十郎の功績をまとめている子もいました。
内容としては、岡本喜十郎が、いかに養老町の発展に貢献したかということや、その生涯について熱心に書いたものがほとんどでしたが、一部に、「牧田川堤防に忠魂碑と相対して」「元文五年高田町の水害地なる島田裏の乗越堤上」「北河原」「高田尋常小学校の教室から北方を望めば忠魂碑の西に見える」といった、昭和3年(1928)に高田町青年団によって建てられた、岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置に関する情報もありました。
岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置が、高田の旧牧田川堤防上であったことは間違いないと思いますが、その正確な場所がよく分かっていないので、ひき続きこうした情報も手掛かりにして、調べていきたいと思います。
「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」一般販売。
2013.08.12
養老町大巻出身で、薩摩義士顕彰会の設立をはじめ、様々な社会貢献を行ってきた山田貞策さんの生涯をまとめた冊子が完成しました。
明日から、60冊限定で、一般販売を開始します。
金額は800円です。
購入を希望される方は、養老町教育委員会生涯学習課(0584-32-5086)へご連絡ください。
受付時間は平日の8:30~17:15になります。
「薩摩義士の如き産業上の献身者こそ、真の義士の模範となすべき」と考えた山田貞策さん。
この冊子を読めば、山田貞策さんこそが、この言葉の最も忠実な実践者であったことが分かっていただけると思います。
なるべく平易な文章を用い、読みやすいものにしてありますので、ぜひ目を通してみて下さい。
なお、この冊子は、将来電子書庫でも公開する予定があります。
岡本村吉。
2013.08.07
明治の終わりから大正の初めにかけて、豆馬亭の東の「うしろ谷」で、大変貧しい生活を送っていたという岡本村吉ですが、この方が四代目岡本喜十郎の長男であったことがわかりました。
血縁がなかったというのは、間違いだったみたいです。
ちなみに、天保14年(1843)12月10日の生まれでした。
いまさらですが、四代目喜十郎の幼名は才吉で、さらにその父の名は勇吉。
村吉という名前で、その可能性に気づくべきでしたかね・・
この他に、養老町の白石にお墓があるという情報もあるので、近いうちにこちらも確認に行こうと思っています。
「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」校了。
2013.07.31
養老町教育委員会で作成を進めている山田貞策さんの生涯をまとめた冊子ですが、ようやく今週校正を終了することができました。
来月13日の薩摩義士慰霊法要に間に合いそうで、ほっとしています。
養老町大巻に日本で初めて水車式排水機を設置したり、池辺村村長を務めたり、薩摩義士顕彰会を設立したりと、様々な事業に取り組んだ山田貞策さんですが、本書には、それらの功績だけでなく、子孫の方からお話しを伺うことのできた貞策さんの人柄などについても掲載することができました。
8月13日以降、関係機関に配布を開始し、希望者には販売も行う予定です。
また、少し時間はかかるかもしれませんが、電子書庫でも公開します。
みなさんも、ぜひ一度、目を通してみてください。
きっと、養老町にこんな人がいたということに、驚くと思います。
みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん。
2013.07.09
現在、養老町教育委員会では、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子を作成しています。
冊子の名称は、「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」です。
幅広い活躍をされた方なので、なかなか名称が決まらなかったのですが、お孫さんの「人の喜ぶことが好きだった」という一言が決め手になりました。
完成までは、まだもう少し時間が掛かりそうですが、ぜひ楽しみにお待ちください。
忍の一字。
2013.07.02
今日、山田貞策さんが座右の銘としていた「忍」の一字の直筆を見せていただくことができました。
忍
かたときも 忘れてならぬ この一字
皇紀二千六百三年 喜寿叟柳坡
と書かれていますね。
亡くなる前年である昭和18年(1944)に、喜寿を迎えて書かれたんだと思います。
ご子孫の方によると、貞策さんはいつも「忍だ。忍だ。」とおっしゃっていたそうですが、まさに貞策さんを表すのにふさわしい一字ですよね。
今日撮影させていただいた写真は、現在、養老町教育委員会が作成を進めている冊子の裏表紙に使用させていただく予定です。
ぜひ、完成を楽しみにお待ちください。
広幡村保育園の整地。
2013.06.26
昭和53年に現在の広幡保育園ができるまで、広幡の保育園は金草川の南堤防のそばにありました。
上の写真は、そんな広幡で最初の保育園をつくるときに、ボランティアで整地を行った婦人会の集合写真。
自分たちの保育園を、自分たちで整地したんですね。
ただ、ここで右下に記された写真の撮影日が、昭和28年5月3日となっていることが気になります。
広幡村保育園の創立が、昭和28年6月1日なので、ここから、わずか1ヶ月ほどで園舎を完成させたことになりますよね。
これには、6月は田植えで忙しいという理由もあったでしょうが・・
なんとなく、翌年が、養老町合併の年であったことも関係あるような気がします。
渋谷代衛さんのご先祖。
2013.06.18
昨年度、養老町教育委員会が冊子にまとめた、養老町大野出身の渋谷代衛さんですが、この渋谷家の由来が、渋谷金王丸という人物にあると伝わっていることを教えていただきました。
養老町で渋谷金王丸といえば、まず思い出すのが、平清盛に敗れ、落ちのびる源義朝とともに、養老町の源氏橋から舟に乗った人物ですよね。
ずいぶん前のことなので、不確かな部分もあるでしょうが、養老町大野で庄屋を務めた渋谷家のご先祖様が、養老町に関わりのある渋谷金王丸かもしれないことを知って、なんだかうれしく思いました。
山田貞策さんの情報収集4。
2013.06.12
今日、山田貞策さんについて、ご子孫の方から、新たにお話を聞く機会が得られました。
ありがとうございます。
福島に長く住まわれていた貞策さんの長女の血筋に連なるお家だったので、八沢浦干拓の話や、それに伴う写真をたくさん見せていただくことができたのですが・・
そんな中に、1枚だけ養老町内で撮影された写真が混じっていました。
上の写真が、その1枚になります。
養老町大巻の山田貞策さんの屋敷で、撮影されたものでしょうね。
詳しいことは分かりませんが、現在、大巻薩摩工事役館跡にある平田靱負像と、現在、神奈川県にある灯籠が、いずれも昭和9年(1934)9月に建立されていたことを思うと、そのとき記念に撮影されたもののような気がします。
といっても、この写真を見てはじめて、平田靱負像と灯籠がセットで建立された可能性に気づいたので、他に見落としがないか、もう少し時間をかけて調べてみようと思います。
渋谷深平さんのお墓。
2013.05.29
養老町大野の覚林寺が管理する墓地に、渋谷代衛さんの三男である理兵衛さんや、かもさん(理兵衛の妻)、深平さん(理兵衛の長男)、そのさん(深平の妻)、おあささん(深平の娘)の名が刻まれたお墓があります。
集中豪雨が起きた、昭和34年(1969)8月に建立されたもので、「父理兵衛」と刻まれていることや、深平さんが亡くなられた年が昭和36年であることから、建てたのは深平さんでしょうね。
あまり詳しいことは分かりませんが、元は、覚林寺の境内にあり、平成16年頃に現在の場所に移されたそうです。
深平さんは、渋谷の家を承けておらず、代衛さんをはじめとする渋谷家代々の墓は、名古屋市の八事霊園にありますが、この深平さんのお墓についての情報も「タギゾウくんの養老ナビ」に登録してあります。
ぜひ、一度お参りに訪れてみてください。
弥縫庵逸話。
2013.05.28
渋谷代衛さんが亡くなられてから6年後の明治35年(1902)の11月、四男である孝次さんによって「弥縫庵逸話」という、渋谷代衛さんの逸話集が刊行されています。
これは、代衛さんと一緒に生活していた三男の理兵衛さんが記録していたものを基にしたもので、中には、代衛さんが生前に語ったことや、代衛さんについての逸話、あるいはその人柄など、代衛さんについての貴重な情報がたくさん記されています。
その中でも、私が特に気に入っている逸話が、次男の豊之助さんによって紹介されている、尾張藩の重臣と大垣藩の小原鉄心との間に起きたトラブルを、渋谷代衛さんが機転を利かせて解決した話。
酒の席で、尾張藩が秘密にしていた内容の真偽を、大垣藩の小原鉄心が確認しようとし、その情報源を問い詰められ、渋谷代衛から聞いたと答えてしまうところから、この話ははじまるのですが・・
代衛さんは、このことを尾張藩の重臣に尋ねられた際、「問い詰めた重臣と同格で、数日前に亡くなってしまった方から聞いた」と答えて、問題を解決してしまいます。
代衛さんの人柄だけでなく、尾張藩にも大垣藩にも重く仕えていたことがわかる、おもしろいエピソードですよね。
詳しくは、電子書庫の「郷土のために骨身を惜しまなかった渋谷代衛さん」に掲載してありますが、当然、小原鉄心には大変感謝され、さらに、大垣藩は、この情報が真実であることを知り、大変得るところが多かったようです。
ただ、代衛さんが、息子さん達に、その内容を話すことはなかったみたいですね。
いったいどんな秘密だったのか、とても気になります。
渋谷代衛翁紀功碑除幕式。
2013.05.27
今日、養老公園の唐谷橋の側にある、渋谷代衛翁紀功碑の除幕式次第をみる機会に恵まれました。
この式次第によると、除幕式のスケジュールは、
1.号砲
2.委員長、発起人、故渋谷翁一族着席
3.来賓着席
4.奏楽
5.祓式
6.地鎮祭
7.委員長式辞
8.除幕
9.来賓祝詞演説
10.故渋谷翁一族総代謝辞
11.式終了ヲ告グ
12.来賓その他一同退席
というものだったようです。
しかし、それよりも気になったのが、式の開催日時。
明治36年(1903)3月に建碑されたことは、まず間違いないので、この10月27日正午12時とは明治36年のことであると思うのですが・・
あわせて見せていただいた、明治43年(1911)に発行された西濃人物誌という教科書には、明治41年(1908)のことと書かれていました。
たった2年前のことを間違えるというのも考えにくいですが、建碑から除幕まで5年かかったというのも考えにくいですよね。
もう少し、情報収集を続けます。
越前。
2013.05.23
養老山中を、柏尾谷から北に、東海自然歩道を200mほど歩いたところに、「越前(えちぜん)」と呼ばれている場所があります。
地名の由来は、越前(現在の福井県)から来た入植者が住んでいたことによるようで、越前屋敷跡と伝わる場所には、今も石積みなどが残っているのですが・・
この福井県からの入植者を連れてきたのが、山田貞策さんであるかどうかが気になっています。
というのも、実は、この場所は、山田貞策さんが、秣の滝から用水を引いて開拓を行ったところでもあり、越前屋敷跡以外にも、水路跡や水田跡が残っているからです。
また、貞策さんは、多藝の滝(直江の滝)でも、同じようなことを考えていたみたいですね。
単純に整理すれば、山田貞策さんが、福井県から入植者を連れてきて、この場所の開墾を行ったため、越前と呼ばれるようになったと考えたいところですが、はっきりしたことは、まだ何もわかっていません。
ただ、その一方で、山田貞策さんがこの開拓地に別荘の分譲を進めようとしていたということも新たに分かってきました。
こうしたバラバラに集まってくる情報をどのように考えるか・・
悩ましいところです。
山田貞策さんの情報収集3。
2013.05.02
今年度、養老町教育委員会では、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子作成を予定しています。
山田貞策さんは、慶応3年(1867)に養老町大巻に生まれ、昭和19年(1944)に亡くなられるまで、薩摩義士顕彰会の設立をはじめ、様々な社会貢献を行ってきた人物。
特に、明治39年(1906)からは、約30年の歳月をかけて、福島県相馬地方の八沢浦干拓事業に力を尽くしました。
このときの拠点は、あくまでも養老にあり、村会議員や村長などを務めながらのことで、お婿さんや息子さんの助力があったとはいえ、大変な苦労をされたみたいですね。
先週、そんな福島県の八沢浦を、現地確認と情報収集の目的で尋ねることができました。
現地は、2年前の東日本大震災に伴う大津波で大変な被害を受けており、様々な課題が山積していましたが、地元の方には、大変丁寧に、山田貞策さんに縁のある場所を案内して頂くことができました。
お忙しい中、本当にありがとうございました。
そのおかげで、当初予定していた山田貞策さんに縁のある場所を、全て確認することができたほか、池辺村の最初の排水機を造った出崎榮太郎さんのお墓を見つけることもできました。
上の写真は、そんな山田貞策さんに縁のある場所の一つで、八沢浦干拓地の総鎮守である「山田神社」を撮影したものです。
この山田神社は、昭和16年(1941)に、山田家の名を、八沢浦に残そうと建てられた神社で、昭和58年(1983)には八沢浦排水機の側に遷座されていたのですが・・
2年前の大津波で流出し、昨年、山田家の邸宅跡に再建されました。
これらの詳細については、冊子にまとめることになりますが、取り急ぎ、山田神社のみ「タギゾウくんの養老ナビ」に情報登録しました。
養老町からはずいぶん距離がありますが、もし福島県を訪れる予定がありましたら、ぜひ八沢浦へも足を運んでみてください。
↑ 大津波で流出した山田神社の社標。
全南殖産株式会社。
2013.04.08
先日、養老町図書館に所蔵されたことを報告した「宝暦治水薩摩義士事蹟概要」ですが、今日、その初版本を見る機会に恵まれました。
当然、その内容については、何も変わりはなかったのですが・・
一点だけ違いがあり、初版本にのみ、協賛団体を紹介するコーナーが設けられていました。
そして、その中には、この本の著者である山田貞策に関係の深い団体が30ほど。
これまで把握できていなかった情報もあり、大変参考になりました。
上の写真は、そんな団体の一つで、大正2年(1913)に、山田貞策が朝鮮半島に農業視察に行き、その後、大垣の同志と設立した全南殖産株式会社の紹介。
今までは、この大垣の同志とは誰のことかをはじめ、全南殖産株式会社については、ほとんど情報がなかったのですが、これにより、大垣の同志が、石井駒次郎という人物であったことが新たに分かりました。
貴重な手掛かりですよね。
この方の建てた洋館が、今も大垣市に残っているようなので、この情報をもとに、もう少し調べてみたいと思います。
岡本村吉と、およね。
2013.04.03
先日、千歳楼や豆馬亭の東の「うしろ谷」に、明治の終わりから大正の初めにかけて、岡本村吉とおよねという老夫婦が住んでいたことを教えていただきました。
上の写真は、そのあたりの様子を撮影したものになります。
この村吉という老人、とても律儀な人柄であるものの、大変貧しい生活を送っていたようなのですが・・
どうも、その粗末な住居の仏壇に、養老公園開発の礎を築いた人物である「岡本喜十郎」の俗名を書いた位牌があったことが分かってきました。
気になったので、少し調べてみたところ、どうやらこの村吉老人は、岡本喜十郎家の名跡を継いだ人物であるらしいということが新たに分かりました。
ただ、血縁はなかったみたいですね。
まだ分からないことばかりですが、なぜこの村吉老人が岡本姓を名乗るようになったのか、ひき続き情報収集を続けたいと思います。
昭和3年の花火大会。
2013.03.11
昭和3年(1928)の7月、養老観光協会の前身である養老保勝会は、養老の滝が二十五勝(名勝)のうちの一つに選出されたことをきっかけに、「養老瀧守護不動尊夏祭りの余興」の名称を「養老瀧夏祭り余興」に変更し、西濃独得の花火に三河花火を組合せた花火大会を開催しました。
上の写真は、そのときのメインである三尺玉の前で撮影された記念写真。
前列に腰掛けている2人が主催者代表です。
笑顔で写っているわけではありませんが、なんとなくお祭り気分で浮かれている様子が伝わってきますよね。
この養老公園の花火大会については、町史にも少し詳しく記述されており、どうやら花火大会の予算には、大会当日の養老鉄道の利用客の増収分が充てられたみたいです。
けっこうお客さんが入ったということなんでしょうね。
そして、この花火大会は、その後支那事変が拡大する昭和12年(1937)まで、9年間続けられました。
いろいろ工夫したようで、全国煙火競技大会を開催した年もあったみたいです。
それにしても、古来より西濃地方に伝承する民俗的花火と三河花火が共演する花火大会とは、一体どんなものだったんでしょうね・・
「渋谷代衛さん」PDFデータの公開。
2013.03.07
『郷土のために骨身を惜しまなかった渋谷代衛さん』のPDFデータを電子書庫に公開しました。
代々の庄屋の家に生まれながら、養老町のために全ての財産を投げ打ち、粗末な家でその生涯を閉じた渋谷代衛さん。
この本の中の、目次の6「逸話集より」には、そんな代衛さんが長年の病気暮らしの中で語ったことを、息子である理兵衛さんがまとめた記録が掲載されています。
代衛さんの四男である孝次さんは、この逸話集のまえがきの中で、「世の役に立つものではなく、ただお世話になった方だけに見てもらいたいと思います」と綴られたようですが・・
できるだけ多くの方々に読んでいただきたいと思っています。
少し、耳の痛いものが多いですが、きっと世の役に立つものばかりですので、ぜひ一度目を通してみてください。
多芸小学校の建築資材。
2013.02.13
先日、養老町飯田の方から、多芸小学校の校舎は、養老町直江・飯積・金屋の人々が共同で、直江が所有している小谷山から、木を切り出して建てたものであることを教えていただきました。
ちなみに、多芸小学校は、大正10年(1921)に、将来を担う村の子ども達があちこちばらばらに小学校に通う現状を憂いて設立された学校で、それだけでも、多芸の人々の教育に対する自立意識の高さが伺えるのですが・・
今回新たに、校舎の建築資材を、自分たちの持ち山から提供したことを知り、改めて多芸の人々の絆に対する思いの深さを感じることができました。
小谷山と多芸小学校は、直線距離でも約5km。
高低差や道中の不便も考えると、建築資材の搬出・運搬は、大変な作業だったでしょうね。
山田貞策さんの情報収集2。
2013.01.30
先月に引き続き、今月も山田貞策について、ご子孫の方から、お話を伺う機会が得られました。
ご協力ありがとうございます。
調査では、先月に得られていた情報を再確認できたほか、お葬式の様子や、これまで知られていなかった会社設立の情報など、新たにたくさんの情報を収集することができました。
また、これまで青色と誤解していた、山田貞策が建てた教会の屋根の色が赤色だったことや、建物の名称が修道館ではなく、修徳館であったことも教えていただきました。
さらに、お庭では、養老町大巻の山田貞策邸から移された灯籠を見せていただくことも・・
こんな立派な灯籠があった山田貞策邸の庭は、きっと素晴らしいものだったんでしょうね。
この他、伺った多くの内容は、整理し、なるべく早く養老ノートで公開していきます。
ぜひ、楽しみにお待ちください。