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橋爪大神宮と金毘羅社の遷座祭。
2018.01.31
1月21日(日)、養老町橋爪にて大神宮と金毘羅社の遷座祭が行われました。
遷座後も上り養老サービスエリアの側にあることに変わりありませんが、現在工事中の養老スマートインター建設に伴い、約50m南東へ移動しました。
大神宮と金羅社は、今回の遷座で少なくとも2度目の遷座となります。
もともと大神宮と金毘羅社は、旧牧田川堤防上に80mくらい離れてあったそうですが、昭和40年7月15日に、上り養老サービスエリアの側に揃って移され、それから50年余りたち、今回再び移動しました。
地元の方のお話によると、もともと旧牧田川堤防上にあった金毘羅社の位置というのは、今回移された場所とほとんど変わらないそうです。
ということは、金毘羅社はもとの位置に戻ってきたのですね。
ちなみに、橋爪の金比羅社で思い出すのは、子どもたちのよもぎだんご遊びによってつくられた土台の穴。
90歳の方のお話によると、小学生の頃、地域のお兄さんお姉さん達のまねをして、みんなで金毘羅社の周りに集まり、よもぎだんご遊びをしたそうです。
この遊びでは、女の子がよもぎだんごを作るお母さん役、男の子は敷いたムシロに座り、よもぎだんごが出来るのを待つお父さん役になっておままごとをします。
よもぎをすりつぶしておだんごを作るには時間がかかり、長く待たされる男の子は「まだかーまだかー」と待ちくたびれ、ようやく2、3㎝のおだんごが完成した女の子は「はい、召し上がれ!」と葉っぱのお皿におだんごをのせて男の子のところまで運びました。
そして、男の子は「ああ、うまいうまい!」とおだんごを食べるまねをしたそうです。
地元の方にお話を聞く前は、コツコツとよもぎをすりつぶす地道なおだんご作りの過程から、なんだか根気がいりそうに感じていましたが、おだんご作りの最中も子どもたちは役になりきり、夫婦の会話をしたりとても楽しく遊んだそうです。
この金毘羅社土台の穴は、現在も見ることができます。
ぜひ、近くを通りかかった方は見てみてください。
小栗栖神社の蛇踊り。
2014.04.07
養老町室原には、「小栗栖(おぐるす)神社」という、南宮大社から大雨で流された小栗栖の神様がここに止まったことに由来する神社があります。
養老町でも古くからあるとされる神社の一つで、美濃国神名帳にもその名が記載されているのですが・・
昭和34年の伊勢湾台風でも、逆水で御神体が垂井町方向に流されたりしていて、何かと水難の多い場所だったみたいですね。
そんな小栗栖神社ですが、裏の池に長年大蛇が住んでいたが、その大蛇があるとき池から出て、杉の木に登り天にのぼったという言い伝えが残っています。
そのためか、昔の小栗栖神社では、神事のときに蛇を作り、南宮大社に向かって蛇踊りを奉納していたみたいですね。
蛇踊りは、南宮大社の例大祭で見ることができるので、どんな踊りだったか大体想像できますが、できればこの目で見てみたかったです。
かえる岩。
2014.02.25
先日、赤岩神社の奥之院にある大きな赤岩の正しい名が「かえる岩」であることを知りました。
それで、赤岩神社には石製や陶製のカエルがたくさん置かれているんですね。
ただ、赤岩そのものに纏わる伝説は、養老山地の急斜面に、山の主であるオスとメスの龍が住む小さな池があったが、大地震による土砂で埋没してしまい、2頭の龍は赤岩に化身したというもの。
カエルはでてきません・・
引き続き、情報収集を続け、なぜ龍の化身がかえる岩と呼ばれるようになったのか理由をつきとめたいと思います。
鬼頭家墓所の閻魔大王。
2014.02.19
薩摩義士に工事の総本部となる土地建物を提供したことでよく知られている大牧(現在の養老町大巻)の鬼頭兵内ですが、その鬼頭家墓所には閻魔大王の像が置かれています。
ちなみに、兵内の名は子孫代々襲名されており、薩摩義士に協力した兵内は4代目になります。
本名は義雄(よしお)で、西濃風俗志によれば「百姓の氏神」と評されるまでの人物であったみたいですね。
そんな人柄であるため、鬼頭家の墓所に閻魔大王が置かれていても、これまであまり違和感を感じたことはなかったのですが・・
そもそも、どの代の兵内が、どんな目的でこの像を建てたのかさえ、よく分かっていません。
ただ、町内で、墓所に閻魔大王があるのは、たぶんここだけですよね。
引き続き、情報収集を続け、なんとかこの閻魔大王像から4代目兵内の実像を探る手掛かりを得たいと思います。
船見の神明神社。
2013.12.19
養老町船見には、地元の氏神として、大切にお守りされている神明神社があります。
祭神は、天照大神と豊受姫神で、年に4回、祭礼も行われています。
ただ、どうも、養老町船見の人たちは、明治25年(1892)までは、養老町若宮にある八幡神社を氏神としていたみたいですね。
しかし、この年、新たに多藝村字前田(現在の養老町三神町)から、神明神社をお迎えすることになり、若宮八幡神社からは分離することを決めたようです。
それにしても、 どうして神明神社は、約5kmも離れた船見に遷座することになったんですかね・・
理由はよく分かりませんが、船見は、それまで養老町若宮とともに、八幡神社を約200年間お守りしてきていたので、きっと大きな決断だったでしょうね。
五社神社の例祭。
2013.10.30
今月の6日に養老町宇田で行われた五社神社の大例祭に、ドイツのバッドゾーデン市の文化交流団とともにお邪魔しました。
宇田の五社神社は、その名の通り、5つの神様が祀られている神社。
その内訳は大縣神社・八幡神社・三嶋大社・住吉大社・春日大社になります。
主となる神様は大縣神社で、その後、他の4社を合祀して現在の姿になったみたいですね。
ちなみに、大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、美濃国神名帳の多藝郡16社の一つでもあり、往古の当地県主を祀ったものとされている神社。正六位上大縣明神とされていて、美濃明細記などには、「縣明神は多芸郡宇田邑に在り。正六位上大縣大明神境内六反余領主より除地云々」という記述もあるようです。また、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで社殿を焼失しているみたいですね。
このほか、周囲には日吉遺跡が広がっており、考古学的にもたいへん気になる神社です。
ただ、残りの4社の元位置など、あまり詳しい情報は得られていません。
大縣神社の場所は昔から変わっていないという話なんですが、これも少し東に本堂という小字があり、やや疑問が残りますね。
いろいろと課題が多く、すぐには解決しないでしょうから、しばらくは幸運を待ちたいと思います。
養老天満宮。
2013.07.10
養老公園にある養老ランドには、菅原道真を祭神とする養老天満宮が鎮座しています。
他の事例を調べてみたわけではありませんが、メリーゴーランドや観覧車などと一緒に、神社がある遊園地は、きっと珍しいですよね。
そのため、ずっと理由が気になっていたのですが・・
遊園地には、たくさんの子ども達が訪れるので、その学業成就などを祈願して、昭和53年(1978)5月30日に鎮座されたことを教えていただきました。
春、夏、秋の年3回、祭事も行われているそうです。
夏休みに、養老ランドへ遊びに行かれる方は、ぜひ養老天満宮で、子どもの学業成就もお願いしてみてください。
多岐神社の御旅所。
2013.07.04
養老町中に、多岐神社の御旅所になっている諏訪神社があります。
御旅所(おたびしょ)とは、祭礼の際、神様が一時的に立ち寄られる場所のことで、今でも、4月の多岐神社の例祭には、多岐神社の祭神がここを訪れるのですが・・
なぜ、養老町三神町の多岐神社の御旅所が、養老町中にあるのかがよく分かっていません。
そんな中、先日、「洪水で、多岐神社の祭神が流され、漂着した場所が今の諏訪神社だ。」と聞いたことがあるという情報をいただくことができました。
ずいぶん昔に聞いた話のようなので、今後、検証を進める必要がありますが、今まで何も分かっていなかったことを考えると、貴重な手掛かりですよね。
養老町史には、弘治・永禄の頃(16世紀中頃)には、すでに御旅があったと伝えられているとの記述があり、その確認作業は簡単には進みそうにないですが、ひき続き、情報収集を続けたいと思います。
養老薬師。
2013.06.20
養老の滝のすぐ近くに、養老薬師を祀る薬師堂が建っています。
このお薬師様、現在は、すぐそばの滝元館さんによって、大切にお守りされているのですが・・
最初からここにあったわけではなく、今の位置に落ち着くまでには、ずいぶんと紆余曲折があったそうです。
昭和29年(1954)に発行された冊子によると、このお薬師様は、岡本喜十郎が千歳楼を経営していた時代には、大正天皇御手植松があった付近に、お堂とともに安置されていたのですが、養老公園開設時に養老町小倉へ移り、さらにその後、関ヶ原町今須を経て、昭和6年(1931)に、養老へ戻ってくることになったみたいです。
冊子には、雪の中、養老から厨子を背負って、お薬師様を迎えにいったことも記述されていました。
現在の所有者からは、お薬師様の裏書に明和2年(1765)とあったという話を聞くこともできていますし、冊子も当事者が書いたものであることを考えると、この経緯は、かなり説得力があるような気がします。
みなさんも、養老の滝を訪れる機会がありましたら、ぜひ養老公園開発の礎を築いた岡本喜十郎が大切にしていたであろうお薬師様も訪ねてみてください。
養老公園の金刀比羅神社。
2013.05.21
養老神社の西側に鎮座している金刀比羅神社ですが、以前は、養老町飯ノ木の源氏橋付近にあったことを教えていただきました。
金刀比羅神社といえば、一般的には、航海安全の神様としてよく知られており、なぜ養老公園にあるのか、以前から不思議に思っていたのですが・・
源氏橋付近なら、理解しやすいですよね。
少しお話を伺ったところ、どうも、お世話されずに放ってあるのを、養老公園で土産物を売っておられた方が見かねて、金刀比羅神社に縁の深かった養老町大場の方に相談したことが、養老公園に遷座する契機であったようです。
その後は、毎年4月8日に、例祭も行われているみたいですね。
ただ、飯ノ木で、このことを覚えておられる方が見つかっておらず、どうして飯ノ木でお世話されていなかったのかが分かっていません。
とりあえず、もう少し、いろいろな方に、このことを尋ねてみようと思っています。
隼人神社のじょりぬぎ場。
2013.03.19
養老町上之郷の隼人神社には、じょりぬぎ場といわれる場所がありました。
じょりぬぎ場というのは、神社の前にあった草履を脱ぐ場所のこと。
どうも、隼人神社にお参りするときには、素足になっていたみたいですね。
今はもう、その場所は残っておらず、詳しいことは分かっていないのですが、私がお話を伺った82歳のおばあちゃんによると、最近まで、3m×2mくらいの島状の形で、神社の南の田んぼの中に残っていたようでした。
ただ、この方が物心ついたときには、すでにじょりぬぎ場で履き物を脱ぐ人はいなかったそうです。
さらに、その姿が往事のままであったかもはっきりしませんでした。
しかし、このじょりぬぎ場は、隼人神社だけでなく、その少し北の白山・御鍬神社にも、あったみたいです。
ひょっとしたら、ほかの地区の神社でも見つかるかもしれないので、ひき続き、情報収集を続けようと思います。
角田のお地蔵さま。
2013.02.26
養老町宇田の角田(すまだ)には、北東に隣接する杉本から移されてきたお地蔵さまがいます。
地元の方によると、杉本に流れ着いた地蔵を、その後、角田に移したそうで、83歳の方が物心ついたときには、既に角田にあったらしいのですが・・
あまり詳しい経緯は分かっていません。
ちなみに、現在は、角田・杉本が共同でお守りをしていて、60~70年程前には、現在地より2mほど北東にあった小さなお堂を、現在のような立派なお堂に建て直したそうです。
そんな一つのお地蔵様を、共同でお守りする角田と杉本ですが、実はこの二つの村はもともとは一つの村。
本村は杉本だったようですが、今後も仲良くお地蔵さまをお守りしていってほしいです。
船附の7つの秋葉神社。
2013.02.15
養老町船附には、火伏せの神様として知られる秋葉神社が7社もあります。
小さいものが多いものの、ごく狭い範囲に集中しているため、その由緒がずっと気になっていたのですが、先日、これらの秋葉神社に関わる情報を教えていただく機会に恵まれました。
お話によると、
今から300年程前に、養老町船附の生蓮寺(しょうれんじ)が、一時無住になり、村人が境内にゴミを置きはじめました。そして、ゴミが山のように溜まった頃、ゴミの中から火の玉が浮かび、ゴミを捨てた人の元へ飛んでいきました。その結果、村の至る場所で火事がおこり、「六羽野乞食(ろっぱのこじき)」といわれるほど家を失う人が続出したため、火伏せの神様である秋葉神社を村中に祀るようになったそうです。
ちなみに、7社のうち3社は、明治初期に再建されたという記録が町史に残っています。
この火事の記録など、まだ調べ足りないことはたくさんありますが、少しすっきりしました。
養老町橋爪の弁天様祭り。
2012.04.17
先週の日曜日、象鼻山山頂で弁天様祭りが開催されたので、お邪魔してきました。
これまでは、4月15日に行われていましたが、去年あたりから4月15日に近い日曜日に変更になっていたみたいです。
私は今回、子ども連れで象鼻山に登ったので、神事の後にお参りさせて頂き、その後、満開の桜の下でおやつを食べたのですが・・
5歳の子が興味を示したのは、満開の桜ではなく、象鼻山1号墳からの眺望でした。
子どもにとって、高い場所から、自分たちが住んでいる場所をみることは、新鮮な驚きがあるみたいですね。
象鼻山は標高140mの山で、子どもでも十分に登れます。
皆さんも、ぜひ一度子ども達に、象鼻山からの眺望を見せてあげてください。
西岩道の牛馬観世音
2011.11.16
養老町西岩道の児童公園のやや西側に、牛馬観世音の碑が建てられています。
この石碑、裏面に昭和30年4月18日建立と記されていて、当初は下の写真の赤印あたりにあったのですが、昭和51年1月、土地改良により現在の場所に移されました。
昭和60年頃、西岩道から牛や馬がいなくなるまでは、碑の周りに提灯を飾って、観音さん祭も行われていたそうです。
養老町でも、昭和40年半ばまでは、農耕に牛や馬を使っていたところが多く、馬頭観音や牛頭天王は比較的よく見かけるのですが・・
牛馬観音は、町内ではどうもここだけみたいですね。
なぜ西岩道だけ、牛馬観音なのか。
引き続き、情報収集を続けたいと思います。
直江の八幡神社。
2011.09.26
養老町直江にある春日神社殿の両脇には、小さな社が4つ並んでいます。
このうち向かって左(南)側の2社は、御鍬神社と秋葉神社の表示があるのですが、向かって右(北)側の2社は、表示がありません。
そのため、昭和26年2月、春日神社の遷座にあわせて合祀された八幡神社が、どちらの社なのか、つい最近まで知らなかったのですが・・
先日、春日神社祭典献灯配置図を見せていただく機会があり、写真左側が八幡神社だと知りました。
ちなみに、右側は神明神社だそうです。
地元以外では、なかなか知ってる人は少ないですよね・・
現在進めている「タギゾウくんの養老ノート」では、こういう情報も積極的に扱っていきたいと考えています。
ぜひ楽しみにお待ちください。
弁天様祭り。
2011.04.20
4月17日(日)の14時から、象鼻山山頂で弁天様祭りが開催されました。
弁天様は、象鼻山に社が残る唯一の神様で、象鼻山3号墳イメージキャラクターのモデルです。
弁天様の社の位置は、象鼻山3号墳(上円下方壇)円丘の真上。
ここを訪れるといつも、この不思議な出会いに運命的なものを感じます・・
象鼻山に祀られる弁天様の神事は、年に1回この時期のみ。
象鼻山の発掘調査に携わったものとして、この日の参拝だけは続けていきたいです。
祖父江の灯明さん
2011.04.19
養老町祖父江字前田にある杭瀬川堤防上に、高さ3mほどの常夜灯があります。
この常夜灯は2代目で、明治35年(1902)に建立されました。
すぐそばには、明和2年(1756)の紀年銘をもつ台石があり、こちらが初代と考えられています。
明治期の祖父江湊の舟運を支えた灯台で、毎年4月の第3日曜日には、例祭が執り行われています。
祖父江の水神さん。
2011.03.15
3月13日(日)、養老町祖父江の八幡神社で春の祈年祭が開催され、これにあわせて、水神社の例大祭も開催されました。
この水神社は、天明4年(1784)に祖父江村の悪水排除を目的とした工事の完成と、五穀豊穣村内安全を祈願して、祖父江の東、大神宮の隣に祀られたものであり、工事の内容は、前田圦樋から杭瀬川を伏越し、上笠村、大外羽村、西村、横曽根村を通じ鵜之森に落水するものであったようです。
現在の八幡神社境内に合祀されたのは、平成7年4月、杭瀬川川幅拡幅堤塘増築工事のためでした。このときに多度神社、神明神社も合祀されたようです。
幾度となく水害にみまわれていた地元の人達にとって、この水神社は大切な守り神、例大祭はとても厳かに進められていました。
無言の行
2011.01.04
新年、あけましておめでとうございます。
今年も元日に、養老町上方の白鳥神社で、「無言の行」が行われました。
「無言の行」とは、宮当番である「神宿(かみやど)」が、大晦日の夜から元日にかけて一言も喋らず、座敷にこもり、神様に仕える儀式のことです。
神社へ朝昼晩のお供えに行く以外の外出は禁じられています。
実際にみるのは初めてでしたが、神宿が自宅から神社へ向かうときの周囲の空気はとても張りつめたものでした。また、神宿が神社へ到着すると、初詣に向かう人達は道を譲り、敬意を表していました。
新年早々、貴重な体験をすることができました。
神宿について詳しくはこちらを参照下さい。
宿直明けでしたが、さらに養老の滝まで足をのばしてきました。
雪化粧をした滝の写真を撮れて満足です。