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釘さし。
2014.02.28
昭和20~30年代くらいの養老町には、「釘さし」という遊びがありました。
その名の通り、釘を使った遊びで、二人以上であれば何人でも遊べるのが特徴です。
ルールは、順番に地面にささるように釘を投げていき、自分の釘がささった場所から次にささった場所へと軌跡が分かるよう線を引く。そして、自分の釘が他の誰かの釘の軌跡によって出られなくなったり、誰かの軌跡を横切ってしまったら負けというものです。
ただ、人から話を聞くだけでは、いまいちよく分からないところがあったので、実際にやってみたところ・・
思っていたよりも、頭脳プレーが要求される遊びであることが分かりました。
また、釘を刺すのに、ちょっとしたコツが必要ですね。
ちなみに、テストでは五寸釘を使いましたが、その頃の釘は貴重品で、主に二寸釘を使っていたみたいです。
また、年下の子どもには、投げずに釘を刺してよいといった特別ルールもあったようですね。
釘を使うため、全く危険がないわけではありませんが、昔もこれでケガをするような子はいなかったそうなので、少し柔らかい地面がある庭先などでぜひ試してみて下さい。
3~4人くらいの人数で遊ぶのが、ちょうど良いかと思います。
茶園原堤の位置。
2014.02.27
明治時代頃、南牧田川の養老町五日市付近の南堤防は霞堤になっていて、連続していませんでした。
この不連続部分付近の一部の通称が茶園原になります。
町史によると、この付近には、長さ48間(約87m)の茶園原堤という牧田川の請堤防があり、明治20年(1887)には、牧田川請茶園原堤防組合連合村会という行政区域の枠を超えて水利工事や整備を行うことができる組織も結成されたみたいなんですが・・
この堤防の正確な位置がよく分かりません。
昭和46年(1971)の土地改良事業までは、堤の一部と大きな池が残っていたようなので、この情報を頼りに、もう少しその跡を探してみたいと思います。
中世石塔の未製品。
2014.02.26
養老山地やその山麓付近には、中世の石塔がたくさん散乱しています。
これらは、養老町の中世社会を考える上で、貴重な手がかりになるものなんですが・・
土地所有者に発見されると、神社やお寺に持ち込まれることが多いですよね。
そのため、山麓部にはいくつか石塔の集積地点ができあがっています。
上の写真は、そんな集積地点の一つで、完成品と未完成品を横並びで撮影したもの。
最近、養老町に分布する中世の石塔には、未完成のものも多く含まれていることが分かってきていて、中世の養老町で石塔作りをしていた可能性が指摘されるようになっています。
ただ、その素材の多くを占める砂岩が養老町域の養老山地では採取できないことや、石材が産出地でどの程度まで加工されるのかが分からないといった課題が残されているため、まだ確かなことは分かっていません。
こうした中世石塔の研究に携わる方はそれほど多くなく、地道に研究が進められるのを待たなければなりませんが、また新しい発見があれば、当ホームページでもご紹介していきたいと思います。
かえる岩。
2014.02.25
先日、赤岩神社の奥之院にある大きな赤岩の正しい名が「かえる岩」であることを知りました。
それで、赤岩神社には石製や陶製のカエルがたくさん置かれているんですね。
ただ、赤岩そのものに纏わる伝説は、養老山地の急斜面に、山の主であるオスとメスの龍が住む小さな池があったが、大地震による土砂で埋没してしまい、2頭の龍は赤岩に化身したというもの。
カエルはでてきません・・
引き続き、情報収集を続け、なぜ龍の化身がかえる岩と呼ばれるようになったのか理由をつきとめたいと思います。
白石薬師堂。
2014.02.24
養老町の白石区が移転する前の元位置には、白石薬師堂が残っています。
建立された年代は不明ですが、地元では15世紀末~16世紀初頭くらいに造られたのではないかと考えられています。
白石村は、永正元年(1504)に養老神社の社殿を造営しているので、その頃には村造りも落ち着いていただろうという推測が一つの目安になっているんでしょうね。
そんな約500年もの歴史をもつ白石薬師堂ですが、残念なことにご本尊の薬師如来像は大正初期に盗難にあってしまい、現在は座像蓮台の石仏が代わりにお祀りされています。
ただ、この他にも寛文12年(1672)の銘をもつ瓦器質の狛犬や石塔物などが納められているようなので、厨子が開かれる10月の第3日曜日の薬師祭りにもう一度おじゃまし、白石村のルーツを辿れそうな手掛かりを探してみたいと思います。
「養老公園タイムトラベル」を追加しました。
2014.02.21
「タギゾウくんの自由研究」のおすすめテーマに、新しく「養老公園タイムトラベル」を追加しました。
これは、開設後の養老公園の変化を、観光などの目的で作られた案内絵図の変化から読み解いていこうという内容です。
観光目的の絵図が中心ですから、中には発行時期を明記していないものもありますが、例えば汽車が描かれていれば、鉄道が開設されてから電車が通るようになるまでの間の絵図であることが分かるので、子どもが一つの課題を追求するテーマとしてはよく条件が整っていると思います。
ぜひ、調べ学習や夏休みの自由研究などの参考にしてみて下さい。
桜井の里。
2014.02.20
養老町桜井の白鳥神社には、ヤマトタケルが休息し、水を汲んで飲んだとされる泉があります。
ちなみに、ヤマトタケルはこの水を「水甘美にして、その味、桜の如し」と評したそうで、桜井の地名もこれに由来しています。
そんな桜井の泉ですが、今まで一度も水が枯れたことがないみたいですね。
さらに、30年ほど前に日照りが続いたときには、村中総出で泉の掃除をし、雨乞いしたところ、雨に恵まれたという話や、泉にはまった子どもが助かったとき、白いひげのおじいさんに助けられたと話したというエピソードなどもあるようです。
また、江戸時代には、田中道麿さんが、「着更きと 春去りくなる名そしるき 花咲き匂ふ桜井の里」という歌も残しています。
境内の北側では、この水が飲めるようになっていることもあり、私も道麿さんに感化されて、2月の桜井の水を飲んでみましたが、ちょっと桜の味は分かりませんでした。
次は花の咲く頃にここを訪れ、桜にヤマトタケルの謎を尋ねてみて、道麿さんの気分を味わってみたいと思います。
鬼頭家墓所の閻魔大王。
2014.02.19
薩摩義士に工事の総本部となる土地建物を提供したことでよく知られている大牧(現在の養老町大巻)の鬼頭兵内ですが、その鬼頭家墓所には閻魔大王の像が置かれています。
ちなみに、兵内の名は子孫代々襲名されており、薩摩義士に協力した兵内は4代目になります。
本名は義雄(よしお)で、西濃風俗志によれば「百姓の氏神」と評されるまでの人物であったみたいですね。
そんな人柄であるため、鬼頭家の墓所に閻魔大王が置かれていても、これまであまり違和感を感じたことはなかったのですが・・
そもそも、どの代の兵内が、どんな目的でこの像を建てたのかさえ、よく分かっていません。
ただ、町内で、墓所に閻魔大王があるのは、たぶんここだけですよね。
引き続き、情報収集を続け、なんとかこの閻魔大王像から4代目兵内の実像を探る手掛かりを得たいと思います。
高林のスキー場。
2014.02.18
最近の聞き取り調査によって、養老山地頂上の三方山付近以外に、養老町高林のパターゴルフ場付近にもスキー場があったことが分かってきました。
運営主体など詳細な情報は得られていませんが、80代半ばの方が、小学校低学年のときに、名古屋から来ていた大学生のスキー板を貸してもらう代わりに、スキー場までスキー板を担いで上がったとおっしゃっていたので、三方山のスキー場が閉鎖された後の昭和10年代くらいの話になると思います。
スキー場の情報が得られはじめた当初は、養老町のスキー場が三方山か高林のどちらにあったのかずいぶん考えましたが・・
結局どちらにもあったんですね。
一見、矛盾があるように思える情報の中にも、事実が含まれていることを改めて認識できました。
この他に、貸しスキーを経営していた人物の情報も得られているので、もうしばらく少ない手掛かりをたどってみたいと思います。
文化遺産ウォーキングが終了しました。
2014.02.17
昨日、2度も延期になっていた文化遺産ウォーキングを無事に終了することができました。
当初の予定より、3ヶ月遅れての開催であったにも関わらず、多くの方々に参加いただき、さらにアンケート調査にも協力いただきました。
ありがとうございます。
今回は、養老の滝に至る「たき道」を中心に、少し寄り道しながら、養老公園に深く関わる文化遺産をご案内させていただきましたが、おおむね好評だったようでほっとしています。
これで、今年度に予定していたニワ里ねっとさんとのイベントは全て無事に終了しました。
来年度以降も、こうした機会を設けていきたいと考えていますので、今後もぜひよろしくお願い致します。
桜井白鳥神社の3本のケヤキ。
2014.02.14
養老町桜井の白鳥神社には、ケヤキの巨木が3本ありました。
このうち、1番大きなケヤキは昭和48年(1973)に養老町の天然記念物に指定され、残りの2本のうち1本も境内で元気に生長しているのですが・・
最後の1本だけは、幹の空洞化が進み、倒壊の危険性が高まってきたため、平成15年頃に切り倒されてしまいました。
ただ、とても立派な木だったため、その後、置物に加工することにしたみたいですね。
ちなみに、下の写真がその置物を撮影したもの。
神社名にある白鳥が描かれていて、直径を測ったところ約1.1mあり、残りの2本はほとんど同じ大きさだったことが分かりました。
切り株は境内に残っていますし、置物も桜井青少年集会所の中に飾られていますので、機会があれば、ご覧になってみてください。
流された橋の木材。
2014.02.13
昭和10~20年代頃、台風で大雨が降り、牧田川に架かる木製橋が流されると、堤防には朝早くから多くの人が集まってきました。
目的は上流から流されてくる木材を引き上げるためです。
どうも、この頃木製橋に使用されていた建築部材は良質なものであり、さらに加工もなされていたため、そのまま建物の修理などに使用することができ、大変貴重であったみたいですね。
朝から早い者勝ちで引き上げていき、持ち帰って畑などに隠したそうです。
ちなみに、この木材競争で有利だったのが、牧田川の北岸の集落でした。
養老町では台風は西から東に抜けていくため、台風が過ぎた後は南風が吹き、流された木材の大半は、北岸に引っかかっていたためです。
上の写真は、そんな競争の激しかった場所の一つである養老町橋爪付近の牧田川北岸を撮影したもの。
このあたりでは、主に広瀬橋が流されてくるのを狙ったみたいですね。
当時の橋爪は、象鼻山を所有しており、他の村に比べて木材には恵まれていたはずですが・・
この話を聞いて、改めて当時の人たちにとって山の資源がいかに重要であったかを感じることができました。
多岐神社の節分祭。
2014.02.12
2月2日の日曜日に、養老町三神町にある多岐神社で、節分祭が行われました。
毎年2月の第1日曜日に実施しているそうで、少なくとも50年くらい前から続いているみたいですね。
拝殿で神事を執り行った後は、開運招福、家内安全を願って、1000袋もの豆がまかれ、参拝者たちは、みんな両手いっぱいに豆を抱えていました。
また、少数ですが、厄払いされている方もいましたね。
そんな、節分祭ですが、現在、私たちが知る範囲では、町内の寺社でこの神事を執り行っているのは多岐神社のみ。
どうして、多岐神社だけがこの神事を行っているのか、次の機会に氏子さんたちに尋ねてみようと思います。
きのこワークショップが終了しました。
2014.02.10
一昨日の土曜日、無事にきのこワークショップが終了しました。
足元の悪い中でしたが、定員一杯の方々にご参加いただきました。
ありがとうございます。
昨年に引き続き、2回目の開催ということで、前回は手間取ったマイタケ菌の接種についても、今年はスムーズに作業を行うことができました。
この調子で、経験を積んでいけば、もう少しですべての作業を自分たちでこなせるようになりそうですね。
また、岐阜県森林文化アカデミーの津田先生に、事前に「きのことは何か」についてお話しいただいたことで、改めて目に見えない菌の活動をイメージしながら作業することの大切さを認識できました。
次の機会には、この部分をもっと重視して、子どもをはじめとする参加者の体験プログラムを考えていきたいと思います。
さて、次のNPO法人ニワ里ねっとさんとのイベントは、天候に恵まれず、2度の延期を経て今週日曜日に開催される文化遺産ウォーキング。
今度は雨天でも決行しますので、申し込みいただいた方は、一応、雨具とてるてる坊主の準備をお願いします。
広幡地区の西脇家文書の調査・整理が進んでいます。
2014.02.07
現在、名古屋大学付属図書館研究開発室では、濃尾地域における歴史資料の保全を目的としたプロジェクトの一環として、養老町広幡地区の西脇家文書の調査と整理が進められています。
ちなみに、西脇家文書とは、高須藩主であった徳永家に仕えた上級家臣の西脇久左衛門を祖とする養老町広幡地区の西脇家に伝わる文書群のこと。養老郡志が一部活用しているものの、これまで歴史資料としての意義や全体像については十分に明らかになっていませんでした。
しかし、今回の調査・整理により、江戸時代後期の資料が中心を占めることのほか、関ヶ原合戦に関わるものや、江戸時代初期の西濃地域の動向を知る上で、貴重な資料も含まれていることが明らかになってきています。
これらの成果の活用については、今後、名古屋大学付属図書館研究開発室と養老町教育委員会が協力して行い、作業が一段落したところで、報告会なども計画していますので、ぜひ楽しみにお待ち下さい。
田中道麿翁の歌碑が建立されました。
2014.02.06
養老町飯ノ木の田中道麿翁顕彰碑の南側に、道麿翁の歌碑が建立されました。
養老町岩道の山口一易さんの寄附に基づくものです。
ちなみに、田中道麿翁とは、養老町飯ノ木の出身で、9歳の頃から歌を詠みはじめ、61歳で亡くなるまで多くの作品を残された国学者。
しかし、これまで一つもそれらの歌を石碑にしたものはありませんでした。
そのため、この石碑は田中道麿翁の歌を刻んだ全国で唯一のものになります。
近くに寄られた際には、ぜひご覧になってみてください。
木造の高田橋。
2014.02.05
昭和29年(1954)にコンクリート製になるまで、高田橋は木造の橋でした。
上の写真は、そんな木造の高田橋が架けられたときの開通式の様子を撮影した貴重な写真。
明治41年(1908)のもので、たくさんの人が見物に来ている様子が伺えますね。
ただ、この木造の高田橋は、その後、台風や豪雨によって何度か押し流されており、明治41年以降も、牧田川に橋が架かっていない時期があったそうです。
そのため、この牧田川を渡って高田中学校へ通学していた生徒さんたちは、服を脱いで河床をわたらなければならないことがあり、大変な思いをすることもあったみたいですね。
男女関係なく、とくに冬は辛かったそうです・・
そんな高田橋ですが、昭和20年代に入ると、水量が多いときには、近くの養老町金屋や直江の人が監視に出て来てくれるようになっていました。
現在も、老人会の方が通学路に立って、児童生徒の安全を見守ってくれていますが、その原形は今から60年以上も前に生まれつつあったんですね。
昭和中頃の象鼻山の木々。
2014.02.04
昭和30~40年頃の象鼻山は、周囲の木々が低く、山頂に上がると周りがとてもよく見わたせました。
そのため、家族みんなで山に登り、山頂でお弁当を広げる風景がよく見られたそうです。
また、木々の数も多くなく、子どもの頃の記憶では、草だらけの細い道を走って登ったみたいですね。
上の写真は、そんな当時の象鼻山の眺望と、木々の様子がよくわかる貴重な写真。
詳細な地点は分かりませんが、昔の登山道も東から西に向かっていたので、山頂近くで北西から撮影されたものだと思います。
奥に写っているのは、橋爪付近でしょうね。
それにしても、こうして、人の写り込んだ写真で比較すると、改めて当時の松の大きさがそれほどではなかったことや、スギやヒノキのような高木がなかったことが分かりますね。
何もかも昔が良いというわけではないでしょうが、この山頂の眺望だけは、現在の象鼻山に取り戻したいです。
浄誓寺のワビスケ。
2014.02.03
養老町石畑の浄誓寺で、ワビスケ(侘助)が花を咲かせはじめました。
ワビスケ(侘助)とは、椿の一種で、門のそばのイヌマキとともに、養老町の天然記念物に指定されている古木。
どちらも、安政4年(1857)の本堂焼亡に耐えて、現在に残りました。
まだ、咲きはじめたばかりで、3月末頃までは見頃がつづくと思いますので、ぜひご覧になってみて下さい。
ただ、境内なので、マナーは守ってくださいね。
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