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徳永松。
2013.09.30
養老寺の本堂と不動堂の前には、明治29年(1896)に枯れるまで、約300年間、徳永松(とくながまつ)という大きな松が立っていました。
上の絵図が、その徳永松を描いたものです。
根周りは約4.8mもあったみたいですね。
慶長12年(1607)に、高須城主であった徳永寿昌によって本堂などが再建された際に、比叡山より持ち帰られ、植樹されたものと伝わっています。
多分、それで、徳永松と呼ばれているんでしょうね。
初代が枯れた後は、もう一度、当時の住職が、比叡山より松を持ち帰り植樹したのですが、それも昭和63年(1988)に枯れてしまいました。
下に掲載してある写真が、その2代目です。
こうした記録を見てしまうと、少し、現在の不動堂と本堂の前が、さみしいようにも思えますね。
南小倉の灯明さん祭り。
2013.09.27
先週の日曜日、養老町の南小倉で、お伊勢さんをお祀りする灯明さん祭りが行われました。
毎年、9月の第4日曜日に実施されていて、南小倉の5つの班が、1年交替で当番をしているそうです。
6時半頃から、役員が太鼓を鳴らし、早く来た人から順番にお参りして帰っていくという流れでした。
ちなみに、灯明の場所は、津屋川のそばなので、伊勢へ向かう川湊に建てられたんでしょうね。
そんな灯明さん祭りですが、養老町ではポピュラーなものである反面、大神宮祭りと呼ぶところがあったり、お社で行うところがあったりと、内容に少しバラツキがあるのが気になります。
中でも、特に気になるのが実施している時期。
9月に行っているところが多いなかで、4月に行っているところもあるようです。
祭りの時期には、何か祭りの本質に関わるような理由があると思いますので、今後も情報収集を続けていきたいと思います。
上方白鳥神社の曳軕。
2013.09.26
先日、養老町上方の白鳥神社に伺った際、社殿の南側に木製の車輪が置かれているのを見つけました。
ちょうど、氏子の方とご一緒だったので、お話を聞いてみたところ、やはり昔に曳軕があったそうです。
あまり詳しいことは、ご存知ありませんでしたが、どうも祭りが終わると分解して、それぞれの氏子の家で保管していたみたいですね。
どんな曳軕だったのか、ひき続き情報収集を続けたいと思います。
多良街道の一本松。
2013.09.25
養老町橋爪には、大垣と上石津町多良を結ぶ多良街道が通っていました。
左の写真は、そんな多良街道を撮影した貴重な1枚です。
養老町の新宮あたりから、南西方向に撮影されたものでしょうね。
奥に写っている象鼻山も気になりますが、この写真でもう一つ気になるのが、街道沿いに立つ一本の松。
おそらくこれが、関ヶ原合戦で西軍の敗残兵が逃げ遅れ、力尽きて松の根元で甲冑を着たまま亡くなったと伝わる多良街道の一本松だと思います。
こんな風だったんですね。
昭和60年までは、まだあったらしく、地元にはこの松のことを覚えている人も多いのですが、私は初めてでした。
現在では、その姿をほとんど消してしまった多良街道、できれば一度歩いてみたかったです。
マイタケが発生しました!
2013.09.24
今年の2月に植菌を行ったマイタケ原木ですが、とうとうマイタケが顔を出しはじめました。
先週、「気温が下がりはじめたので気をつけるように」という指導を頂いてからは、あっという間でした。
これまで全く変化がなかっただけに、とてもうれしかったです。
ということで、近々、前回の植菌ワークショップの参加者を対象とした2回目のワークショップを開催します。
その詳細な日程は、明後日の現地指導後に決定しますが、まもなくだと思いますので、今から準備をしておいて下さい。
「白鳥神社史」の公開。
2013.09.20
今日、電子書庫のその他のコーナーに、養老町上方の白鳥神社の由来や神事などを記した「白鳥神社史」を公開しました。
地元が昭和35年(1960)に発行したもので、町の文化財に指定されている神宿制や、雨乞い、古墳など、上方の白鳥神社に関わる興味深い情報がわかりやすくまとめられています。
ぜひ、一度目を通してみて下さい。
絵本作成中。
2013.09.19
養老町教育委員会では、タギゾウくん絵本シリーズ第7弾の準備を進めています。
今回のテーマは「養老断層」
現在、ストーリーと絵コンテを作成しているところですが、養老町の根幹をなす要素であるだけに、少し手間取っています・・
完成するまでには、まだ時間がかかりそうですが、ぜひ楽しみにお待ち下さい。
昭和40年代の竜泉寺古墳。
2013.09.18
養老町竜泉寺には、石材目的で破壊される以前は、横穴式石室が開口していたと伝えられている古墳があります。
上の写真は、そんな竜泉寺古墳の墳頂部を東から撮影したもの。
散乱している石が、石室石材です。
昭和49年(1974)に、既に養老町文化財保護協会が、竜泉寺古墳が破壊されている状態であることを報告しているので、おそらくはその少し前に行った調査時に撮影されたものでしょうね。
現在も、ほとんどこのままの状態で、付近からは、最近の竜泉寺廃寺跡の調査によって、ようやく少し古墳時代の須恵器を発見することができるようになっています。
とはいえ、相変わらず、ほとんど情報のない竜泉寺古墳。
どこかに、破壊したときの記録などが、残っていないですかね・・
常盤町の子ども歌舞伎。
2013.09.17
先日、高田祭の照鱗閣軕で、子ども歌舞伎を行っている写真を見つけました。
照鱗閣軕(しょうりんかくやま)というのは、常盤町が所有する曳軕で、子ども歌舞伎用の舞台を備えたものなのですが、昭和36年(1961)を最後に、子ども歌舞伎を披露することはなくなりました。
そのため、 この写真は、それ以前に撮影されたものだと思います。
どのような外題があったかなど、あまり詳しいことを知らなかったのですが、この写真のおかげで、少なくとも石童丸(いしどうまる)物語を奉芸していたということが分かりました。
おそらく、向かって左側の男の子が石童丸役でしょうね。
できることなら、一度、見てみたかったです。
岡本喜十郎懸賞文。
2013.09.13
昭和4年(1929)、まだ養老町高田に小学校があった頃に、小学校6年生が岡本喜十郎について書いた作文を見る機会がありました。
岡本喜十郎は、千歳楼の創始者で養老公園開設の礎を築いた人物ですが、養老町高田の出身だったので、高田尋常小学校で、その功績を詳しく教えていたんでしょうね。
58名もの応募があり、中には原稿用紙4枚にもわたって、岡本喜十郎の功績をまとめている子もいました。
内容としては、岡本喜十郎が、いかに養老町の発展に貢献したかということや、その生涯について熱心に書いたものがほとんどでしたが、一部に、「牧田川堤防に忠魂碑と相対して」「元文五年高田町の水害地なる島田裏の乗越堤上」「北河原」「高田尋常小学校の教室から北方を望めば忠魂碑の西に見える」といった、昭和3年(1928)に高田町青年団によって建てられた、岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置に関する情報もありました。
岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置が、高田の旧牧田川堤防上であったことは間違いないと思いますが、その正確な場所がよく分かっていないので、ひき続きこうした情報も手掛かりにして、調べていきたいと思います。
たき道沿いの水引草。
2013.09.12
今週、養老公園内のたき道沿いで、水引草(みずひきそう)を見つけました。
水引草は、長い茎に、米粒のような白い花を咲かせる植物で、写真のような一見赤く咲いているようにみえるものも、実は、白い部分が花で、赤い部分は萼(がく)という、つぼみを保護する部分にあたるようです。
お茶花としても使われる花で、白いものや赤いものがあると思っていましたが、それは萼の色が違うだけみたいですね。
日陰の湿った土を好むようなので、井水堀のあるたき道沿いにたくさん咲いているんだと思います。
11月くらいまで、咲いていてくれると思いますので、養老公園を訪れた際には、ぜひこちらもご覧になってみてください。
名神高速道路ができる前の象鼻山。
2013.09.11
先日、新たに象鼻山を撮影した古い写真を見つけました。
はっきりとした年代は分かりませんが、名神高速道路がまだないので、それ以前のものですよね。
そのため、この写真には、壊される前の象鼻山の鼻が写っているはずなのですが・・
何度、目を凝らしてみても、よく分かりません。
とりあえず、当時の養老町橋爪を知る方に、一度見てもらおうと思っています。
昭和31年の西光寺。
2013.09.10
先週、昭和31年4月3日に撮影された、直江の西光寺の写真を見せていただくことができました。
南直江の旧牧田川堤防上に立地する西光寺を東側から撮ったもので、西光寺だけでなく、その周囲の様子もよく分かる貴重なものです。
昭和55年に発行された「時宗の寺々」という本に、本堂と鐘楼を備えたお寺だったと記されていましたが、こんなかんじだったんですね。
写真の左隅に写りこんだ地蔵堂が、現在の南直江の地蔵堂だと教えていただくまで、これが西光寺だと気付きませんでした・・
それにしても、元は旧牧田川堤防よりも西の字経堂にあり、関ヶ原の戦いで焼失するまで、150石の寺領と、春日・八幡・神明の三社の宮を含む7つのお堂からなっていたとされている西光寺。
どのような過程を経て、ここに移転し、写真のような状況に至ったのかが改めて気になります。
とりあえず、字経堂に残る八幡神社跡から、調べてみようと思います。
境松の近景。
2013.09.09
去年の3月にご紹介した伊勢街道沿いの境松ですが、枯れてしまう前の写真を見る機会に恵まれました。
ただ、残念ながら、全景を撮影したものはなかったので、唐傘松とも呼ばれる由縁となった枝を張り出す姿を確認することはできませんでした。
それでも、周囲の木々より、ずっと大きい松であったことは分かりますよね。
ちなみに、境松が枯れてしまったのは昭和40年(1965)くらいなので、この写真はそれよりも前に撮影されたものになると思います。
ひき続き、情報収集を続け、次は全景を撮影したものを探したいと思います。
長顕寺の鐘。
2013.09.06
養老町西岩道では、仏事以外に、村方の行事や、お宮の神事でも、長顕寺の鐘でその開始を知らせています。
仏事以外では、住職ではなく、それぞれの当番が鐘を衝いていて、西岩道ではとても身近な存在なのですが・・
どうも仏事以外でも、お寺の鐘が使用されるのは、養老町では珍しいみたいですね。
両隣にある口ケ島や岩道では、仏事以外にお寺の鐘を使用していないようでした。
ちなみに、この長顕寺の現在の鐘は、昭和23年2月に檀家から寄進されたもの。
以前のものは、戦時に供出されています。
毎朝5時には、時刻も知らせてくれていて、西岩道の生活には欠かせないものになっています。
大場のお地蔵さま。
2013.09.05
養老町大場の燈明橋南、五三川沿いに、区でお守りされているお地蔵さまがいます。
元は、現在地より約40m南の五三川左岸堤にお堂があったのですが、昭和34年の水害後、五三川水害護岸工事に伴い、大場本田八幡神社社標の東側に移転され、さらに、平成19年になって、お堂の老朽化と町道沿いが危険だという理由で現在地に移されました。
由緒など詳しいことはわかりませんが、毎年、8月の第3日曜日には、西運寺さんをお招きして地蔵盆が行われ、参加した子ども達にはお供えしたお菓子も配っているそうです。
ただ、池辺地区でよく聞く結婚式に関係する風習は、このお地蔵さまにはないみたいですね。
この情報は、タギゾウくんの養老ナビに登録してあります。ぜひ一度訪ねてみてください。
鎧掛けの榎。
2013.09.04
養老町飯ノ木には、平治の乱で敗れた源義朝(みなもとよしとも)が、休息した際に鎧を掛けたと伝わる木があります。
この木、元々は松だったはずなのですが・・
いつの頃かに枯れてしまい、その後、何故だか、鎧掛けの木は、榎(えのき)に変わってしまいました。
上の写真は、そんな松の跡を継いだ、初代の榎を撮影したものです。
昭和30年くらいでしょうか。
現在は、この榎も枯れ、跡地には2代目の榎が植えられていますが、そばを通るたびに、なぜ榎に変えてしまったのかが気になっています。
念佛瀧。
2013.09.03
先週、明治初めの養老町の絵図の中に、これまで聞いたことのない滝を見つけました。
名前は「念仏の滝」です。
養老の滝の南に描かれており、多藝の滝(直江の滝)が描かれていなかったことから、最初は、多藝の滝のことを表しているのかとも思いましたが・・
絵図の精度や、周辺の地図情報から、多藝の滝を誤認したとは考えにくいと判断しました。
ということで、今月の下旬に、現地確認を行います。
新しい発見になれば、改めてご報告しますので、ぜひ楽しみにお待ちください。
歴史講座開催のお知らせ。
2013.09.02
養老町教育委員会では、今年も、NPO法人ニワ里ねっとにお願いして、10月9日(水)に歴史講座を開催します。
今回のテーマは、養老公園。
具体的には、講師に石川寛(名古屋大学文学研究科特任准教授)先生を迎え、明治13年(1880)という、県内でも比較的早い時期に公園を開設した養老公園の歴史的意義を、参加者の皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
詳細は下記の通りで、今日から申し込みを受付しています。
定員以外に、参加者に制限は設けませんので、ぜひご参加ください。
<歴史講座>
内容:養老公園開設の歴史的意義を考える。
講師:石川寛(名古屋大学文学研究科特任准教授)、赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター副センター長・NPO法人ニワ里ねっと理事長)
日程:平成25年10月9日(水)10時~12時
場所:山口会館(養老町高田)34-3311
定員:50名(事前申込必要、先着順)
※電話で養老町教育委員会生涯学習課32-5086にお申し込みください。
※参加無料
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