News 最新ニュース
唐谷のオオバアサガラ。
2013.05.31
養老公園の唐谷沿いで、オオバアサガラ(大葉麻殻)という花を見つけました。
房になって咲いているので、はじめは藤の花かと思ったのですが、なんだか、花の形が違いますよね。
谷や渓流などを好むようなので、年間を通して水量が安定している唐谷は、生息しやすいのかもしれません。
ちなみに上の写真は、今週の月曜日のものです。
もうそろそろ見頃になっていると思いますので、養老公園に行かれた際には、ぜひこちらも探してみてください。
吉田神社入り口の石仏。
2013.05.30
養老町豊にある吉田神社の入り口に、頭部の欠けた石仏があります。
前から、不思議に思っていたので、地元の方にお話を伺ったところ、元は境内の井戸のそばにあったものを、現在の位置に移したことは分かったのですが・・
正確な元位置や、ここに移された時期など、詳しいことはわかりませんでした。
このあたりは遺跡なので、ひょっとしたら地中から出土したのかもしれませんね。
吉田神社周辺は、これからホタルが姿を見せるようになるので、ホタル狩りがてら、もう少し、聞き取りを続けようと思います。
渋谷深平さんのお墓。
2013.05.29
養老町大野の覚林寺が管理する墓地に、渋谷代衛さんの三男である理兵衛さんや、かもさん(理兵衛の妻)、深平さん(理兵衛の長男)、そのさん(深平の妻)、おあささん(深平の娘)の名が刻まれたお墓があります。
集中豪雨が起きた、昭和34年(1969)8月に建立されたもので、「父理兵衛」と刻まれていることや、深平さんが亡くなられた年が昭和36年であることから、建てたのは深平さんでしょうね。
あまり詳しいことは分かりませんが、元は、覚林寺の境内にあり、平成16年頃に現在の場所に移されたそうです。
深平さんは、渋谷の家を承けておらず、代衛さんをはじめとする渋谷家代々の墓は、名古屋市の八事霊園にありますが、この深平さんのお墓についての情報も「タギゾウくんの養老ナビ」に登録してあります。
ぜひ、一度お参りに訪れてみてください。
弥縫庵逸話。
2013.05.28
渋谷代衛さんが亡くなられてから6年後の明治35年(1902)の11月、四男である孝次さんによって「弥縫庵逸話」という、渋谷代衛さんの逸話集が刊行されています。
これは、代衛さんと一緒に生活していた三男の理兵衛さんが記録していたものを基にしたもので、中には、代衛さんが生前に語ったことや、代衛さんについての逸話、あるいはその人柄など、代衛さんについての貴重な情報がたくさん記されています。
その中でも、私が特に気に入っている逸話が、次男の豊之助さんによって紹介されている、尾張藩の重臣と大垣藩の小原鉄心との間に起きたトラブルを、渋谷代衛さんが機転を利かせて解決した話。
酒の席で、尾張藩が秘密にしていた内容の真偽を、大垣藩の小原鉄心が確認しようとし、その情報源を問い詰められ、渋谷代衛から聞いたと答えてしまうところから、この話ははじまるのですが・・
代衛さんは、このことを尾張藩の重臣に尋ねられた際、「問い詰めた重臣と同格で、数日前に亡くなってしまった方から聞いた」と答えて、問題を解決してしまいます。
代衛さんの人柄だけでなく、尾張藩にも大垣藩にも重く仕えていたことがわかる、おもしろいエピソードですよね。
詳しくは、電子書庫の「郷土のために骨身を惜しまなかった渋谷代衛さん」に掲載してありますが、当然、小原鉄心には大変感謝され、さらに、大垣藩は、この情報が真実であることを知り、大変得るところが多かったようです。
ただ、代衛さんが、息子さん達に、その内容を話すことはなかったみたいですね。
いったいどんな秘密だったのか、とても気になります。
渋谷代衛翁紀功碑除幕式。
2013.05.27
今日、養老公園の唐谷橋の側にある、渋谷代衛翁紀功碑の除幕式次第をみる機会に恵まれました。
この式次第によると、除幕式のスケジュールは、
1.号砲
2.委員長、発起人、故渋谷翁一族着席
3.来賓着席
4.奏楽
5.祓式
6.地鎮祭
7.委員長式辞
8.除幕
9.来賓祝詞演説
10.故渋谷翁一族総代謝辞
11.式終了ヲ告グ
12.来賓その他一同退席
というものだったようです。
しかし、それよりも気になったのが、式の開催日時。
明治36年(1903)3月に建碑されたことは、まず間違いないので、この10月27日正午12時とは明治36年のことであると思うのですが・・
あわせて見せていただいた、明治43年(1911)に発行された西濃人物誌という教科書には、明治41年(1908)のことと書かれていました。
たった2年前のことを間違えるというのも考えにくいですが、建碑から除幕まで5年かかったというのも考えにくいですよね。
もう少し、情報収集を続けます。
養老山地のヘビ。
2013.05.24
5月も後半になり、養老山地の新緑が盛りを迎えています。
そして、これに合わせて、ヘビの活動も、活発になってきましたね。
先週も、たった20分ほど山に入っただけで、3匹見かけました。
ちなみに、その内訳は、アオダイショウ2匹、マムシ1匹です。
まだ、すこし気だるそうにしてましたが、皆さんも山に入るときは、十分に気をつけてくださいね。
あと、生命には関わりませんが、ヤマビルも要注意です・・
越前。
2013.05.23
養老山中を、柏尾谷から北に、東海自然歩道を200mほど歩いたところに、「越前(えちぜん)」と呼ばれている場所があります。
地名の由来は、越前(現在の福井県)から来た入植者が住んでいたことによるようで、越前屋敷跡と伝わる場所には、今も石積みなどが残っているのですが・・
この福井県からの入植者を連れてきたのが、山田貞策さんであるかどうかが気になっています。
というのも、実は、この場所は、山田貞策さんが、秣の滝から用水を引いて開拓を行ったところでもあり、越前屋敷跡以外にも、水路跡や水田跡が残っているからです。
また、貞策さんは、多藝の滝(直江の滝)でも、同じようなことを考えていたみたいですね。
単純に整理すれば、山田貞策さんが、福井県から入植者を連れてきて、この場所の開墾を行ったため、越前と呼ばれるようになったと考えたいところですが、はっきりしたことは、まだ何もわかっていません。
ただ、その一方で、山田貞策さんがこの開拓地に別荘の分譲を進めようとしていたということも新たに分かってきました。
こうしたバラバラに集まってくる情報をどのように考えるか・・
悩ましいところです。
第4の高田祭曳軕。
2013.05.22
養老町の高田祭には、猩々軕、林和靖軕、神楽獅子軕の他に、もう1輌曳軕があります。
名前は、照鱗閣軕(しょうりんかくやま)。
常盤町が所有する曳軕で、子ども歌舞伎用の舞台を備えたものなのですが・・
昭和36年(1961)を最後に、子ども歌舞伎を披露することはなくなり、さらに昭和49年(1974)頃からは、祭りに曳き出されることもなくなっていきました。
そんな経緯で、最近では幻の曳軕となってしまっていた照鱗閣軕ですが、先週の金曜日、軕倉を開けて見せていただく機会が得られました。
ありがとうございます。
これまで白黒写真でしか見たことがなかったので、色が分かっただけでも収穫でした。
ただ、どうやら常盤町は、やむなくこの曳軕と軕倉を取り壊すことを決断されたみたいですね。
今更ですが、もし、昭和50年に他の軕と一緒に、文化財指定されていたならなどと考えてしまいます。
養老公園の金刀比羅神社。
2013.05.21
養老神社の西側に鎮座している金刀比羅神社ですが、以前は、養老町飯ノ木の源氏橋付近にあったことを教えていただきました。
金刀比羅神社といえば、一般的には、航海安全の神様としてよく知られており、なぜ養老公園にあるのか、以前から不思議に思っていたのですが・・
源氏橋付近なら、理解しやすいですよね。
少しお話を伺ったところ、どうも、お世話されずに放ってあるのを、養老公園で土産物を売っておられた方が見かねて、金刀比羅神社に縁の深かった養老町大場の方に相談したことが、養老公園に遷座する契機であったようです。
その後は、毎年4月8日に、例祭も行われているみたいですね。
ただ、飯ノ木で、このことを覚えておられる方が見つかっておらず、どうして飯ノ木でお世話されていなかったのかが分かっていません。
とりあえず、もう少し、いろいろな方に、このことを尋ねてみようと思っています。
平成25年の高田祭が終わりました。
2013.05.20
昨日、無事に高田祭が終わりました。
心配された天気ですが、やはり本楽の日の午後からは、雨が降りはじめてしまいましたね。
そのため、楽しみにしていた午後の奉芸を見ることはできませんでした。
とはいえ、予想通りの雨に対し、大切な見送り幕や人形を手際よく外し、さっさと倉へ戻った前の2輌と、本楽の午後には常に最後尾から出発するため、シートを掛けてから倉に戻った神楽獅子車山の違いは印象的でした。
前の2輌が1年毎に順番を変えるのに対して、神楽獅子車山の順番は最後尾に固定されているので、やむを得なかったんでしょうね。
晴れているときには気づかないことでした。
ただ、来年は、天気のいい高田祭を楽しみたいです。
ハルジオン。
2013.05.17
5月も後半に入り、町内のあちこちでハルジオン(春紫苑)を見かけるようになりました。
養老町に限らず、どこででもよく見かける花で、雑草というイメージが強いですが、まとまって咲いているとけっこうきれいですよね。
そんなハルジオンですが、最近この花に見た目がそっくりなヒメジョオン(姫女苑)という花があることを知りました。
葉が多いかどうかや、茎の分かれ方など、細かい見分け方もあるようですが、決定的な方法は、茎を折ってみて、その断面が空洞かどうかで、空洞ならハルジオン、そうでなかったらヒメジョオンだそうです。
早速、実際に確かめてみると、この時期に咲いているのは全てハルジオンで、ヒメジョオンはまだつぼみだということが分かりました。
面倒な庭の草むしりも、このことで、ちょっとだけ楽しみになりました。
明後日から、高田祭がはじまります。
2013.05.16
明後日から、高田祭がはじまります。
今年は、高田祭が本来行われていた日である、5月18・19日の開催。
これによって、何か変化があるわけでもないのですが、平成14年(2002)以来のことなので、ちょっと特別な気がしますよね。
この高田祭にあわせ、養老町教育委員会でも、「タギゾウくんの養老ナビ」に情報を登録しました。
日曜日の天気がすこし心配ですが、ぜひ、この週末は高田祭にお出かけください。
薩摩誉。
2013.05.15
昭和の初め頃、養老町大場の木村製菓さんでは、薩摩誉(さつまほまれ)という薩摩義士顕彰会御用達のお菓子を作っていました。
これは、煎った大豆を、蜜ときな粉に何度かくぐらせ、最後に五色の砂糖をまぶして作るお菓子で、現在の店主の祖父にあたる木村作造さんが開発しました。
全国菓子飴大博覧会で銀杯を受賞するほどの自信作で、商標登録され、鹿児島にも送られていたみたいですね。
しかしその後、昭和34年の集中豪雨で、商標は流されてしまい、今では、このお菓子も作られなくなってしまいました。
さみしいことですが、和菓子を取り巻く状況を考えると、やむをえない判断だったようです。
ただ、銀杯を受賞したときのメダルだけは、どこかにしまってあるそうなので、できれば次の機会に見せてもらえるとうれしいです。
島田のお地蔵さま。
2013.05.14
高田橋の南に、きれいな顔立ちをしたお地蔵さまがいます。
毎朝、通勤で必ず通る場所にお堂があり、以前からその由来が気にはなっていたのですが・・
先日、やっと地元の方から、お話を伺うことができ、その優美な姿からは想像できないくらい、このお地蔵さまに、いろいろな変化があったことが分かってきました。
はっきりしないところも多いのですが、このお地蔵さまは明治の後半に、水害で流れてきたか、置き忘れられたかで、牧田川堤防にあったところを発見され、しばらく個人でお守りされていたのですが、その後、お世話が大変になり、地区でお守りされるようになります。
そして、次に集中豪雨に見舞われ、木造のお堂が流され、さらにこのときお地蔵さんの首も折れてしまいます。
また、この頃から、右手にまた錫杖をもつようになり、さらに少したった昭和40年頃には、お堂が木製からコンクリート製に改築されたそうです。
約100年のことだと思うと、ずいぶんな苦労と変化ですよね。
しかし、当のお地蔵さまのお顔には傷一つ無く、少しもそんな雰囲気がありません。
いずれにせよ、よく分からないところも多く、9月1日には毎年お祭りをしていることも教えていただいたので、もう少し情報収集を続けていこうと思います。
なお、この情報は「タギゾウくんの養老ナビ」にも登録してありますので、興味のある方はぜひ一度お参りに行ってみてください。
広幡小学校のヒトツバタゴ。
2013.05.13
広幡小学校の校舎と体育館の間の、ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)が見頃を迎えています。
そのため、この情報を「タギゾウくんの養老ナビ」に登録しました。
広幡小学校の校舎が新築されてから、植えられたもののようなので、それほど大きくはありませんが、たくさんの白い花を間近で見ることができるので、ぜひ一度、現地を訪ねてみてください。
昨日の須恵器。
2013.05.10
昨日紹介した、須恵器のハソウですが、今日早速、養老町泉町で見つかったように思うとの追加情報をいただきました。
過去の養老町教育委員会の調査では、養老町泉町で古代の遺跡を確認できていないので、ひょっとしたら新しい発見につながるかもしれませんね。
あまりはっきりとは思い出せていないようでしたが、とりあえず近いうちに現地を確認してこようと思います。
須恵器のハソウ。
2013.05.09
昨日、たまたま別件で伺ったお宅で、昔の水道工事の際に出土した須恵器(すえき)を見せてもらうことができました。
ちなみに、須恵器というのは、主に古墳時代から平安時代にかけて、登窯で焼成された青色の焼き物のことです。
現在のように重機を使わず、まだ手堀りで水道工事を行っていたころに出土したそうで、養老町のものであることは間違いなさそうなんですが・・
「養老だったか・・多芸だったか・・」という感じで、残念ながら、詳しい出土位置までは覚えておられませんでした。
小さな壺に、注ぎ口がついた「ハソウ」と呼ばれている器種で、平底に高台をもつことから、だいたい7世紀の終わりから8世紀くらいのものだと思いますが、どこで見つかったかが重要ですよね。
「覚えている人がいるかもしれないから聞いてみる。」とおっしゃっていたので、朗報を待ちたいと思います。
ミツバチの分蜂2。
2013.05.08
昨日、養老町立東部中学校の近くで、ミツバチが分蜂しているとの情報をいただきました。
前回の確認情報も東部中学校でしたが、そのときは分蜂に適さない10月末だったため、その後うまく越冬できたのか心配だったのですが・・
たぶん、大丈夫だったということなんでしょうね。
少し、ほっとしました。
田中道麿翁顕彰碑設置工事。
2013.05.07
先日、田中道麿翁顕彰碑の設置工事の様子を撮影した写真を見る機会に恵まれました。
これまでには、除幕式を撮影した写真しか見たことがなかったので幸運でした。
荷車とチェーンブロックを使って、建ててますね。
写真に日付はありませんでしたが、顕彰会を設立した昭和32年(1957)7月から、除幕式が行われた昭和32年10月4日の間のものだと思います。
また、右端には、神官さんも写りこんでおり、最初の頃の顕彰祭が、現在のような仏式ではなく、神式であったことも分かります。
どうも昭和53年あたりから、仏式に変わったみたいですね。
ただ、経緯はよくわかっていません。
役員の改選があったようなので、そのせいかもしれませんね・・
山田貞策さんの情報収集3。
2013.05.02
今年度、養老町教育委員会では、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子作成を予定しています。
山田貞策さんは、慶応3年(1867)に養老町大巻に生まれ、昭和19年(1944)に亡くなられるまで、薩摩義士顕彰会の設立をはじめ、様々な社会貢献を行ってきた人物。
特に、明治39年(1906)からは、約30年の歳月をかけて、福島県相馬地方の八沢浦干拓事業に力を尽くしました。
このときの拠点は、あくまでも養老にあり、村会議員や村長などを務めながらのことで、お婿さんや息子さんの助力があったとはいえ、大変な苦労をされたみたいですね。
先週、そんな福島県の八沢浦を、現地確認と情報収集の目的で尋ねることができました。
現地は、2年前の東日本大震災に伴う大津波で大変な被害を受けており、様々な課題が山積していましたが、地元の方には、大変丁寧に、山田貞策さんに縁のある場所を案内して頂くことができました。
お忙しい中、本当にありがとうございました。
そのおかげで、当初予定していた山田貞策さんに縁のある場所を、全て確認することができたほか、池辺村の最初の排水機を造った出崎榮太郎さんのお墓を見つけることもできました。
上の写真は、そんな山田貞策さんに縁のある場所の一つで、八沢浦干拓地の総鎮守である「山田神社」を撮影したものです。
この山田神社は、昭和16年(1941)に、山田家の名を、八沢浦に残そうと建てられた神社で、昭和58年(1983)には八沢浦排水機の側に遷座されていたのですが・・
2年前の大津波で流出し、昨年、山田家の邸宅跡に再建されました。
これらの詳細については、冊子にまとめることになりますが、取り急ぎ、山田神社のみ「タギゾウくんの養老ナビ」に情報登録しました。
養老町からはずいぶん距離がありますが、もし福島県を訪れる予定がありましたら、ぜひ八沢浦へも足を運んでみてください。
↑ 大津波で流出した山田神社の社標。