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おすすめテーマの追加準備2。
2013.02.28
養老町教育委員会では、「タギゾウくんの自由研究」に追加するおすすめテーマの第2弾として、「養老小学校の歴史」の作成を進めています。
これは、去年の夏休みに、養老小学校2年生の男子が提出したくれた作品を基にしたもの。
学校統合の過程を知るための調査方法が適切で、さらにその成果がとても分かりやすくまとめられていたので、本人とその保護者にお願いして、許可をいただきました。
ありがとうございます。
まもなく公開できると思いますので、ぜひ今年の夏の参考にしてみてください。
西岩道と東岩道。
2013.02.27
江戸時代の初め頃、養老町には、西岩道村の隣に、東岩道村がありました。
この二つの村は、どちらも同じような石高で、昔は仲良く名前を並べていたのですが・・
このうち、東岩道の地名は、今の養老町に見当たりませんよね。
これは東岩道村が、後に東の文字を取って、岩道村に名前を変えてしまったためで、現在の岩道が、昔の東岩道村にあたります。
その理由については、どうやら、江戸時代の初め頃、西岩道村が尾張藩領で、東岩道村が高須藩領であったため、西岩道が東岩道を見下してきていたのですが、17世紀に入る頃、東岩道村が天領(幕府領)に変わり、両村の立場が逆転し、東岩道村が「わしら天領や。尾張さまのご本家やで。」となって、本家らしく東をとって、岩道村になったと考えられているみたいです。
確認はできていませんが、実際に、正保郷帳では、西岩道村・東岩道村となっているのに対し、天保郷帳では西岩道村・岩道村と変わっているので、説得力はあるような気がしますよね。
ただ、どうも西岩道の人たちの中には、未だに岩道のことを東岩道と呼ぶ人がけっこういるみたいです。
岩道村が名前を変えてから、少なくとも150年は経っているはずですが、まだしばらくは東岩道の地名は養老町に保存されていきそうですね。
角田のお地蔵さま。
2013.02.26
養老町宇田の角田(すまだ)には、北東に隣接する杉本から移されてきたお地蔵さまがいます。
地元の方によると、杉本に流れ着いた地蔵を、その後、角田に移したそうで、83歳の方が物心ついたときには、既に角田にあったらしいのですが・・
あまり詳しい経緯は分かっていません。
ちなみに、現在は、角田・杉本が共同でお守りをしていて、60~70年程前には、現在地より2mほど北東にあった小さなお堂を、現在のような立派なお堂に建て直したそうです。
そんな一つのお地蔵様を、共同でお守りする角田と杉本ですが、実はこの二つの村はもともとは一つの村。
本村は杉本だったようですが、今後も仲良くお地蔵さまをお守りしていってほしいです。
きのこワークショップが終了しました。
2013.02.25
一昨日の土曜日、朝9時から、きのこワークショップを開催しました。
少し寒い日になりましたが、定員一杯の方々にご参加頂くことができました。
ありがとうございます。
当日は、岐阜県立森林文化アカデミーの津田先生に講演もいただき、きのこの作り方だけでなく、きのこの生活の仕方などについても教えていただくことができました。
きのこの多くにまだ名前がないことや、「きのこ」と「かび」の違いなど、いろいろ大変勉強になりましたね。
また、実習では、比較的簡単につくれるシイタケやムキタケの菌の接種だけでなく、マイタケ菌の接種作業にも挑戦していただきました。
そんな手間暇かけてきたきのこですが、収穫するまでには、まだ、いくつかクリアしなければならない工程が残っています。
なんとか、それらも上手くこなし、秋に美味しいきのこを食べたいですね。
明日は、キノコワークショップです。
2013.02.22
今日は、明日のキノコワークショップのための、事前準備を行いました。
朝早くから始めたにもかかわらず、岐阜県立森林文化アカデミー、NPO法人ニワ里ねっと、養老町橋爪区の、多くの方々にご協力いただきました。
本当にありがとうございます。
作業のほとんどが初めての経験だったため、少し時間がかかりましたが、なんとか無事に、明日のワークショップを迎える準備が整いました。
特に、8時間にも及ぶマイタケ原木の煮沸殺菌は大変でしたね。
そんな明日のワークショップ「キノコをつくろう!」は、午前9時からのスタート。
天気の心配もなさそうですし、どんなワークショップになるか、今からとても楽しみです。
結婚式のたびに隠されるお地蔵さま。
2013.02.21
養老町の瑞穂西には、地元で結婚式があるたびに、どこかに隠されてしまうお地蔵さまがいました。
地元の方に伺ったところによると、昭和の初め頃までの話みたいですが、地域で結婚式があると、村人が地蔵を持ち出して、村内外のどこかに隠し、隠された地蔵を新郎新婦の親族が探し出して、もとの御堂に戻すという慣わしがあったそうです。
遠いときには、3km以上離れた小坪に隠されていたこともあったみたいですね。
ただ、新婦がお地蔵に触れると、この地には住みつけなくなると考えられていたようで、お嫁さんだけは、決して触らないように気をつけていたそうです。
ちなみに、当時こうした行事を取り仕切っていたのは、村の若者たち。
きっと、楽しんでやっていたんでしょうね。
昭和39年度の養老北小学校入学式。
2013.02.20
昨日、昭和39年度の養老北小学校の入学式の写真を見る機会に恵まれました。
児童数の減少により、まもなく統合されてしまう直前の入学式の写真だけあって、さすがに人数が少ないですよね。
町史によると、昭和39年度の養老北小学校は、教職員の配置定数が1名減になった為に、学校とPTAが児童の学力低下を憂慮し、わざわざPTA側から経費を負担してまで1人の先生を雇い入れ、複式学級になるのを回避したそうです。
そんな昭和39年の養老北小学校の入学児童数は、男子11名、女子9名。
天気が悪かったため、校舎玄関でなく、裁縫室での撮影になったみたいですが、貴重な資料となりました。
それにしても、どの先生が、新しく採用された先生なんでしょうね。
ネコヤナギの花。
2013.02.19
先週、お墓参りにいくと、お地蔵様にネコヤナギが供えられていました。
1月頃から、養老町のあちこちで見かけるようになるネコヤナギですが、花の少ないこの時期には、切り花として重宝しますよね。
わが家でも、お墓やお仏壇に飾っていて、母もよく使っていました。
そんなネコヤナギの出番も、もうあと少し・・
そろそろ、梅の季節に変わりますね。
養老公園にあった群霊塔。
2013.02.18
明治の終わりから昭和18年までの間、養老公園の妙見堂の北東あたりの位置に、濃尾震災の犠牲者と、日清戦争の戦没者を祀った群霊塔が建っていました。
ただ、この群霊塔は銅製であったために、昭和18年に第2時世界大戦に伴う金属回収で供出され、建立後50年足らずで、その姿を消してしまったそうです。
上の写真は、そんな群霊塔が、まだ養老公園にあったころの様子を撮影した貴重な写真。
これだけでは、よく分かりませんが、塔の上部三方には、まるで下を睨んでいるように仏像が取り付けられ、怖いもののように感じる方もいたみたいですね。
どんな仏像だったのか・・
引き続き、情報の収集を続けたいと思います。
船附の7つの秋葉神社。
2013.02.15
養老町船附には、火伏せの神様として知られる秋葉神社が7社もあります。
小さいものが多いものの、ごく狭い範囲に集中しているため、その由緒がずっと気になっていたのですが、先日、これらの秋葉神社に関わる情報を教えていただく機会に恵まれました。
お話によると、
今から300年程前に、養老町船附の生蓮寺(しょうれんじ)が、一時無住になり、村人が境内にゴミを置きはじめました。そして、ゴミが山のように溜まった頃、ゴミの中から火の玉が浮かび、ゴミを捨てた人の元へ飛んでいきました。その結果、村の至る場所で火事がおこり、「六羽野乞食(ろっぱのこじき)」といわれるほど家を失う人が続出したため、火伏せの神様である秋葉神社を村中に祀るようになったそうです。
ちなみに、7社のうち3社は、明治初期に再建されたという記録が町史に残っています。
この火事の記録など、まだ調べ足りないことはたくさんありますが、少しすっきりしました。
おすすめテーマの追加準備。
2013.02.14
養老町教育委員会では、「タギゾウくんの自由研究」におすすめテーマを追加する準備を進めています。
追加するおすすめテーマは全部で3つで、その第1弾は、昨年の夏に実施した火打石ワークショップを基にしています。
公開まで、もう少し時間が必要ですが、きっと参考になると思いますので、ぜひ楽しみにお待ちください。
多芸小学校の建築資材。
2013.02.13
先日、養老町飯田の方から、多芸小学校の校舎は、養老町直江・飯積・金屋の人々が共同で、直江が所有している小谷山から、木を切り出して建てたものであることを教えていただきました。
ちなみに、多芸小学校は、大正10年(1921)に、将来を担う村の子ども達があちこちばらばらに小学校に通う現状を憂いて設立された学校で、それだけでも、多芸の人々の教育に対する自立意識の高さが伺えるのですが・・
今回新たに、校舎の建築資材を、自分たちの持ち山から提供したことを知り、改めて多芸の人々の絆に対する思いの深さを感じることができました。
小谷山と多芸小学校は、直線距離でも約5km。
高低差や道中の不便も考えると、建築資材の搬出・運搬は、大変な作業だったでしょうね。
象鼻山の眺望回復作業が完了しました。
2013.02.12
先月から進めていた象鼻山の眺望回復作業が終了しました。
これにより、象鼻山からの眺めはずいぶんよくなりましたが・・
それでもまだ象鼻山1号墳の被葬者が見たであろう眺望に近づくには、しばらく時間がかかりそうですね。
ただ、登る価値は十分にあると思います。
春も近づいて、少し温かくなってきましたので、ぜひ一度、象鼻山に登ってみてください。
妙見堂への道標。
2013.02.08
養老公園の妙見堂の登り口と、渡月橋の北詰には、それぞれ同時期に、ほぼ同じ内容で建てられた2つの道標があります。
書かれている内容は、それぞれ以下のようなものなので、妙見堂までの道を示すものであることは間違いないと思いますが・・
妙見堂登り口
「(正面)左 妙見山 本堂より瀧へ三丁(右側面)鳳明代 大正九年四月 施主 日比野寅吉」
渡月橋北詰
「(正面)妙見山 本堂より瀧へ三丁 左(右側面)鳳明代 大正九年四月 施主 鈴木利太」
鈴木利太がどのような人物で、養老サイダーの生みの親である日比野寅吉とどういう関係にあったのかが、ちょっと気になっています。
寅吉の出身地である大垣の人のようなので、単に二人は仲のいい友達だっただけかもしれませんが、せっかくなのでもう少し調べてみたいと思います。
大正2年の時刻表。
2013.02.07
先日、開業当時の養老鉄道の時刻表を見せていただくことができました。
ちょうど100年前の、大正2年(1913)のものです。
ちなみに、当初の養老鉄道は汽車で、まずは池田町から養老町までの区間で営業を開始したのですが・・
この資料を見せていただいて、新たに、当初の養老鉄道の大垣養老間には、西大垣・友江・美濃高田の3つしか駅がなかったことや、それにも関わらず大垣養老間の移動に38分もの時間を要したことなどを知りました。
どうやら、現在のように大垣養老間を25分で結ぶようになったのは、養老鉄道が電化される大正12年(1923)からみたいですね。
それにしても、私が最寄り駅として利用している烏江駅が、開業当時の養老鉄道に見当たらないことには驚きました。
いったいいつできたのか・・
少し調べてみたいと思います。
ホームページのリニューアル準備中。
2013.02.06
養老町教育委員会では、現在「養老町の歴史文化資源」ホームページのリニューアルを進めています。
タギゾウくんの養老ノートなど、主要なコンテンツにアクセスしやすい環境をつくるのが主な目的です。
それほど、大きな変更にはなりませんが、これまでより少し、使い勝手が向上すると思いますので、いましばらくお待ちください。
養老町郷土料理の記録ノート。
2013.02.05
現在、養老町教育委員会では、情報収集した5つの郷土料理の記録を公開する準備を進めています。
公開の方法は、「タギゾウくんの養老ノート」と「iBooks用の電子書籍」の2種類。
とくに、後者の電子書籍は、動画や3D画像などを直感的に操作できるため、子どもでも楽しめるものになると思います。
1~2ヶ月中には公開できると思いますので、ぜひ楽しみにお待ちください。
不老ヶ池の噴水。
2013.02.04
養老公園の千歳楼の東側に、「不老ヶ池」と呼ばれている池があります。
この不老ヶ池、まだまだ情報不足で、その由来など、よく分かっていないことも多いのですが・・
最近の聞き取り調査で、元はもっと小さな池だったことや、現在の姿に整備した際には、噴水も設けられていたことが分かってきました。
その当時の様子を撮影したものが、上の写真になります。
左下に、かなりの高さまで、水を噴き上げる噴水が写っていますよね。
唐谷の水を利用しているんだと思います。
現在も、四季を通して、カメラをもった方達がたくさん訪れる不老ヶ池。
引き続き、情報収集を続け、名前の由来や、整備した人物が誰なのかを調べていきたいと思います。
橋爪のヨノキ。
2013.02.01
養老町橋爪には、「ヨノキ」と呼ばれているエノキがあります。
樹齢は300年ほどで、邪霊を退けるため、民家の北西(戌亥)隅にしっかりと立っているのですが・・
ここが、狭い道路脇にもあたっているため、ちょっと迷惑そうにする車もあるみたいですね。
しかし、地元では、「ヨノキの方が先にここにいたんだから」といって、なるべく邪魔に思わないようにしているそうです。
今はすっかり葉が落ちていますが、春を迎えると大きく広がった枝に葉が生い茂り、秋には5~7mmくらいの赤い実を付けるので、ぜひ一度会いに行ってみてください。
ただ、車で進入するのはやめておいた方がいいと思います。
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