Horeki Flood Control Construction 宝暦治水
宝暦治水
養老町を含む木曽三川流域の輪中地帯は、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流という問題を解決することを悲願としてきました。
そして、この解決に大きな功績を残したのが、遠く離れた薩摩藩(鹿児島県)の藩士たちでした。
しかし、それは薩摩藩士が望んだものではなく、多くの犠牲を伴うものでした。ここでは、木曽三川流域の治水の礎を築いた薩摩義士の功績を紹介します。
工事の経緯
養老町を含む木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑はもちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。
木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の方へ流れてきてしまったのです。
こうした時代背景の中、宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を出しました。
これには、旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を弱めるねらいがあったと考えられています。
薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、意見はまとまらず、むしろ「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が大勢を占めました。
そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」というものでした。
これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始されます。
工事の計画
工事区間は、延長112kmと広範囲な地域に及び、一之手、二之手、三之手、四之手の工区に分けて実施されました。中でも難工事となったのが、三之手の大榑川洗堰(おおぐれがわあらいぜき)及び四之手の油島(あぶらしま)の締切工事でした。
宝暦御手伝普請目論見絵図(養老町史付図より)
工事の実際
年月日 | 出来事 |
---|---|
1753年(宝暦3年) 5月 |
幕府の代官吉田久左衛門、木曾・長良・揖斐三川の普請箇所を検分。輪中の村々より工事請願書40余通を提出される。 |
8月13日 | 濃尾地方大洪水により三川の堤防各所で決壊する。 |
12月6日 | 勘定奉行一色政沆、老中堀田正亮に治水工事の設計書、絵図面を提出。 |
12月25日 | 幕府、木曾川治水工事のお手伝いを薩摩藩主島津重年に命ずる。 |
1754年(宝暦4年) 1月16日 |
家老平田靱負、工事奉行に、大目付伊集院十蔵、同副奉行に任命。 |
1月29日 | 平田靱負、薩摩藩士の一隊を率いて鹿児島を出発。 |
1月30日 | 伊集院十蔵、残りの薩摩藩士を率いて鹿児島を出発。 |
2月16日 | 平田靱負等大阪に着く。平田は金策のため大阪に留まる。 |
2月27日 | 鍬入れ式が行われ、春の工事開始。 |
閏2月2日 | 藩主島津重年夫人死去。 |
閏2月9日 | 平田靱負、工事費7万両を工面して美濃大牧(養老町大巻)に着く。 |
3月5日 | 秋の工事の設計変更について合同合議、五の手の工事中止。 |
4月14日 | 永吉惣兵衛、音方貞淵切腹し、薩摩方の最初の犠牲者となる。 |
4月22日 | 水行奉行髙木新兵衛の家来、内藤十左衛門切腹する。 |
5月11日 | 藩主重年、世子重豪をともない、参勤のため鹿児島を出発。 |
5月21日 | 町人請負で、秋の工事用の石集めを開始。 |
5月22日 | 春の工事終る。幕府役人ら江戸へ引き上げる。 |
6月11日 | 濃尾地方大洪水。薩摩方復旧工事を命ぜられる。 |
7月5日 | 藩主重年、世子重豪をともない、一の手の工事場を巡視。 |
7月22日 | 濃尾地方大洪水。薩摩方復旧工事を命ぜられる。 |
8月25日 | 薩摩方に病人続出。薩摩方、秋工事の延期を願う。この月、薩摩方は、幕府から石集めの厳しい督促を受ける。 |
9月24日 | 油島堤防の下埋めの工事始まる。秋の工事の開始。 |
12月18日 | 二の手の工事完成。このころ、大榑川洗堰着工。 |
12月23日 | 二の手の内検始まる(~24日)。 |
1755年(宝暦5年) 1月13日 |
幕府役人竹中伝六切腹。 |
1月16日 | 二の手出来ばえ検分始まる(~20日)。 |
3月24日 | 三の手内検始まる。 |
3月27日 | 一の手、四の手の工事完成。 |
3月28日 | 三の手の工事完成。一の手の内検始まる(~29日)。 |
3月29日 | 四の手の内検始まる(~4月6日)。 |
4月16日 | 一の手の出来ばえ検分始まる(~21日)。 |
4月24日 | 三の手の出来ばえ検分始まる(~5月10日)。 |
5月13日 | 四の手出来ばえ検分始まる(~22日)。 |
5月22日 | 全ての出来ばえ検分終了。 |
5月24日 | 平田靭負、国許へ工事完成の報告。 |
5月25日 | 平田靭負、美濃大牧の本小屋(大巻薩摩工事役館跡)で切腹。 |
5月27日 | 平田靭負を京都伏見の大黒寺に葬る。 |