岐阜県養老町の歴史文化資源


平田靱負翁
平田靱負翁
そのころの薩摩藩は、幕府から財政ゆたかとみられていても、実は藩内や大阪などに約70万両の借金がありました。総奉行の平田靱負は、途中、大阪に滞在し、工事のための資金調達に奔走し、とりあえず7万両を借り、美濃へ向いました。 藩士たちは、馴れない治水工事のうえに、夏期出水で工事に支障をきたし、嫌がらせとも思える理不尽な指示や妨害、きびしい幕府からの督責などで、悲憤やるかたなく責任をとって割腹するもの、環境の悪さから、疫病まで流行する状況で、多くの犠牲者をだしました。工事は宝暦4年(1754)2月から翌5年3月未までかかり、幕府の現地検分が終ったのはその年の5月22日でした。総奉行の平田靱負は、80余名の犠牲者を出したことと、巨万の藩債を作って、末長く藩に苦難を残したことに対し、死んでお詫びをしようと決心をしました。「工事は上々の出来栄えで、検査も全部すみ、工事場を引上げてよろしいと言われましたので、こんな嬉しいことはありません。」と、鹿児島と江戸表の家老に最後の報告書を書きあげたのち、自分の心境を辞世の歌として残しました。 住みなれし里も今更名残りにて立ちぞわづらふ美濃の大牧 宝暦5年(1755)5月25日早朝、役館にて、身を清め白装束の靱負は、殿様からいただいた刀を取り、島津家の安泰を祈って、自害し五十二才の生涯を終えました。
大巻薩摩工事役館跡
天照寺薩摩工事義歿者墓
根古地薩摩工事義歿者墓
天照寺
発掘された甕と慰霊堂
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