揖斐郡大野町大字野に大野町指定天然記念物「野村モミジ」というカエデがある。このカエデはイロハカエデの変種とされ、重厚な風情の庭園修果樹として造園師は数寄屋造りの庭に、家主の風流のたしなみと頭するとして好んで用いられた。野村モミジは養老の滝の元にあった楓の古木から成育、繁茂したものといわれている。

織田信長の弟で戦国末期に秀吉に仕えた武将茶人、有楽流の茶人の祖である織田有楽長益(おだうらくながます)の子、織田河内守長孝(おだかわちのかみながたか)は関ケ原の合戦(1600)以前に多芸郡大塚村と同吉田村500石を知行し、大塚村に屋敷を構えた。慶長6年(1601)織田河内守が養老観瀑に来て、不思議な紅葉が目に留まった。家老の矢田太兵衛の懐にその紅葉の苗木を入れて持ち帰り、河内守の屋敷の御庭に植えた。その翌年、河内守は夜、不思議な夢を見た。天人が下り、名木を植えた。夢心に楓に数万の華が咲くという夢であった。その春より楓は色を変え、紅の葉を生じた。これより河内守自ら紅葉と名付けた。

同じくして、御屋敷の辰巳の方向に山椒の木が生えた。この山椒の木には針がなく実は十粒実り、その十粒が全ておなじ形と大きさであった。これに河内守は御満悦で若木の山枡と名付けた。春の頃となり紅葉について歌一首を詠じられた。その歌を詠じられたその年よりモミジは一年に七度宛色を替え、春は紅く、それより紫となり又紅くなり、夏は青く、桃色となり、秋は黄になり赤くなりて落葉する。故に七遍木とも名付けられ名木となった。また紅葉を御愛着され、毎年春は紅葉の祝いとして紅葉の葉の出し頃、餅に小豆を入れたものを紅葉の餅として緒家、家臣に配られたと寛永10年(1633)に河内守の近習であった松久新右衛門の文書に記されている。

関ケ原合戦では、有楽斎長益と河内守長孝父子は家康に属し、赤坂東牧野村に布陣した。軍忠あって河内守長孝は、多芸郡の大塚村と吉田村に加えて、慶長6年(1601)一万石に封ぜられ大野、本巣の野村、桜大門、西黒野村、牛洞村など10ヵ村1万石を領して大野郡野村(現 揖斐郡大野町野)を治城とした。この長孝の屋敷跡は現在「織田河内守邸跡」として町指定史跡になっている。大塚村の旧屋敷から移し、丹精して育てた「野村モミジ」は風流モミジともいわれ、現在3代目が植えられている。河内守長孝の子、長則は寛永8年(1631)に病没したが嗣がなく、野村織田藩は断絶したが、モミジは旧邸跡地で、代々村人によって成育を続け、江戸期以降、梁川星巌、平松南園、吉田桃斉、五竹坊、再和坊などの文人が詩や句に詠み、全国に普及した。

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表示位置は浄蓮寺の野村モミジを示している。