飯田と飯積は、名前は似ているが、領主が異なった。「小畑川の新堤築に関する村取替証文」によると、宝永6年(1709)に水争いで多良の水行奉行、高木五郎左衛門氏が来た時は、飯積は天領、飯田は尾張藩領だった。同証文によれば、小畑川の新堤の高さは飯田側の方は2尺(約61㎝)低く築くよう、対岸の飯積・金屋・宇田村から申し入れがあった。
飯田の立場が弱かったのは、飯積が天領であったのに対して飯田が尾張藩領であったためであるという意見と、飯積輪中の方が飯田側の堤よりも先に築かれていたためであるという意見がある。

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水行(すいこう)奉行とは、江戸幕府におかれた河川を管理する役所奉行のこと。美濃では多良の高木家がこの役所をしていた。表示位置は飯田と飯積の境を示している。