服部担風(はっとり たんぷう)先生は、生年慶応3(1867)年、没年昭和39(1964)年である。幼名を粂之丞(くめのじょう)といった。
冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏の師であり、当時の日本における漢学の第一人者であった。愛知県弥富村で私塾を開き、漢学を教えていた。他に、桑名、名古屋でも教えており、全国からたくさんの人が教えを乞いに来ていた。
弥富、桑名、名古屋で漢詩塾を開いたため、東海地方では、他県にくらべても服部担風先生の教えが根付いていった。
昭和28(1953)年、担風の唯一の漢詩集が日本芸術院賞を受賞した。
昭和34(1959)年、伊勢湾台風の時には、自宅の天井まで水が来て、貴重な書物が全部水に浸かってしまった。
昭和39(1964)年、96歳で亡くなった。弥富市の専念寺の墓に葬られている。
蝶如氏は、担風先生没後から自身が亡くなる直前までの約30年間、担風先生の月命日には、毎月欠かさず養老線に乗って、墓参していた。
担風先生自身は思っていなかったが、門人達は、担風先生の稀に見る漢学に対する造詣の深さから、是非担風先生に文化勲章を、という気持ちがあった。しかし当時の日本は科学に目が向いていたので、漢学で文化勲章を貰えない風潮があった。
愛知県弥富市には、服部御三家の立派な古い家が今も残っている。また、町内には、台風で壊れてしまった担風先生の家を一部復元した書斎などが残っている。弥富市歴史民俗資料館には、服部担風先生のコーナーがある。
担風先生には養老へ2回ほど来て貰った、と蝶如が『服部担風先生雑記』の中で書き遺している。
担風先生の所へは、覚梁氏も蝶如氏について2、3回行ったことがある。
蝶如氏の書籍では、担風先生は相撲が好きだったなどと書かれており、担風先生の気さくな人柄が分かる。
覚梁(かくりょう)氏が、高校教師をしていた頃に文芸部を作り、文芸雑誌を出す際、担風先生の話を載せる為に、4、5人の生徒を連れて弥富へ行った時もニコニコして優しい言葉で色々と話してくださった。
担風先生は、新愛知新聞(中日新聞の前身)で漢詩の撰者をしていた。郁達夫(いく たっぷ)氏は漢詩の投稿を行ったことで担風先生と知り合った。
担風先生を初めて訪ねた郁達夫氏が帰る時、馬車に乗っている氏を、担風先生が歩いて駅までずっと付いて来たことが蝶如氏著の『服部担風先生雑記』に載っている。担風先生は、普通では考えられないくらい素朴で実直な方であった。
郁達夫氏からしても、自身の父親が早くに亡くなっており、担風先生が父のような存在で、特別な気持ちがあったのではないだろうか。
服部担風先生雑記』でも桑名の愛宕旅館で、よく担風先生の藍川吟社という漢詩の会があったと記されている。漢詩では、長良川は藍川と表現した。担風先生は藍色が好きだったこともあり、会にこの名前がついた。

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